字や図が読みにくい人は一番まずい

次はノートの使い方だ。これこそ「人それぞれ」「人生色々」で、定型的なものがあるわけではなさそうだ。しかし問題はノートそのものではなく「字」や「図」にある。もう少し正確に言うと「書いた字に責任を持つ」意識があるかどうかだ。

実は私自身はペン習字を習おうと考えているぐらい、字がとても汚いので、パソコンの時代になって一番恩恵を受けている気がする。それでも学生時代はそれなりに気をつけていたのは事実だ。

そもそも中間・期末・学年末の定期テストは「何」なのか。特に公立の学校に限定して考えてみると、どう見ても「お役所への報告書」だ。「私これだけ勉強しましたよ」「これだけ考えていますよ」と「プレゼンテーション」することでもある。

「プレゼン」やって何を手に入れるのか?それは税金の補助だ。あからさまな表現で申し訳ない。しかし結果そうなる。全国の公立中学、高校が、かなり学費が安いのは、税金で補填しているからで、言うなれば「お金のつかみ取り」「椅子取りゲーム」「レアものバーゲンへの突撃隊」みたいだ。

中学までは義務教育だから、手続きをすれば、ほとんど誰でも入れる。保護者の義務だから当然だ。しかし、現実は全然違うが、建前上あるいは憲法上、高校に行かせる義務は保護者にはない。日本国憲法制定当時に「高校全入」になるとは予想していなかったこともある。これが良いか悪いかは議論のあるところだ。

当方は正確に言うと「普通高校をたくさん作って高校全入を果たしたのはまずかった」と考えている。中学では8~9科目あるわけで、8~9種類の高等学校や実業高校があっても、良いのだが、現実にはそうではなく「普通高校」がやたらに多い。その中身は最近色々変化してきているが定期テストになると、覚えたくもない年代を覚えたり、化学式を覚えたり、英単語や古文単語を覚えないといけない。苦手な人や興味のない人には、限られた青春の浪費であり苦痛でしかない。中学レベルの数学でもあまりよくわかっていない人が、高校数学を勉強しないといけないのは何か意味があるのだろうか、と真剣に考えてしまう。英語でも理科で社会でもだ。

「普通」とは「取り柄のないこと」だ。今の体制は「取り柄のない人を生産している」としても間違いではないと考えている。

テストはプレゼンだ

閑話休題。
現実は「公立高校に入学できる」=「税金の補助を受ける」=「私はそういう資格がある学生だ」以上のことを「お役所」にアピールするのが「テスト」で、その結果で決まる。そういう自覚がある人は、なるべく読めるように字を書くだろうし、書かないといけない。逆には、そういう字が書けていない人は、自覚のない人と思われる。本人がいくら自覚があると言い張っても、他人は外側からしか判断できない。

例えば英語で、ブロック体の「a」の上を開けてしまって「u」みたいに書いても平気な人は、アウトなプレゼンテイターだ。数学では、ノートの罫線の間に、分数をチマチマと書き込んで、どれが分母で分子なのか、わからない人もアウトなプレゼンテイターだ。あるいは見取り図が「これ何?」でも当てはまる。「先生が良いように解釈してくれるだろう」と甘えたことを言っているヒマはない。100個ぐらい正しく練習すれば、相当不器用な人でもない限り、描けるようになるものだ。

しかし小・中学校で「メンドーな人」と認識された場合は先生も強く指導しないし、「ハズレ」の先生に当たった場合でも同じで、描く技術はそのままだから学年が上がるにつれて苦労は倍化する。

言葉で人は外界と接触する。同様に、テストや提出用の問題集・レポートは評価するお役人=学校の先生との、デリケートな接点だ、という自覚を持たなければいけない。お役所というところは、最近デジタル化されてきたが、やはり文書を扱う。誰かが書きなぐった紙をそのまま保存してくれるほどまだ甘くはない。だから「字」「図」あるいは「グラフ」が汚い人は、「テストはプレゼン」と自覚していないことが明らかで、必然的に点数は獲得できない。これはなんとかしないといけない、一番大切な所だ。