その感想を述べたいが

変な話だが、英語は英会話教室に通っていてもあまり学校のテストの点数は伸びない。学校のテストは「紙に書く」形式だからだ。思うのと、言う=発言するのが違うように、言うのと書くのはもっと違う。帰国子女でぺらぺら英語は話せるが、その中身が幼い人は、すごく多いのと同じかもしれない。

日頃使っている日本語でも、話すときの使い方は、友達と尊敬する人と、「これからの青少年のあり方」などというお題でスピーチする時では全然違っているはずだ。同じことが書く時にも言える。そしてどっちでも、使う漢字の量が全然違うはずだ。

またその外国語のネイティブさんは「そんなこと当たり前」と思っていることを、わざわざ指摘したりはしない。と言うより気が付かない。時々数学の先生で「なぜそこがわからない?」と生徒に言ってしまうのとこれまた同じである。

話していることは、考えていることとほぼ同じだから、割合スムーズに行くが、書くとなると、どうしても字数とか文の最後の締め方とか、同じことを繰り返していないかが気になってしまう。話すのは「跡が残らないから」あまり気にならないが、書くと「跡が残る」からだ。ここでまたうんうん考えてしまい、先に進まなくなる。

試験で答案として書くためには、独特の訓練を経なければ、まずうまく行かないのは、数学でも同じだ。いくら他人が書いた良い答案を写しても、自分のものにはなっていないから、テストの時は書けない。やはり自分の頭できちんと理解して、自分なりの答案を作成する練習を積まないとだめである。

会話に重点を置きすぎて単語を増やせばそれで良いと考えているようだ

しかし世の英語教育は、特に公教育の中学英語では、この逆を行くこと、会話に重点を置き、書くことは後回しになったことが、今回の新課程で、さらに明らかになってしまったなあ、とこの前から単語・英文確認テストを作っていて、その観を強めた。

やたら単語数は増えたが、その並びがものすごくいい加減で、おまけに単語の訳が、後ろの辞書パートにも載っていなかったりするのも、二三ではなくあちらこちらにあった。辞書パートにないなら、そこで辞書を調べよう、という殊勝な人なら大丈夫だろうが、大半の中学生はそんなことはしない。わからなかったら「ま、いいか」で終わらせるのが普通だし、わかっていないことすら把握していないこともある。

いつの世でも、できる人はいるし、できない人もいる。問題は中間層で、その中間層を「できる人」に近づけていくことによってその社会は活性化する。私とて刺激を与えてくれる人たちがいたから「やってみるか」となった場合も結構あった。

しかしこのような「物量作戦」を取られてしまうと、暗記力に欠けている人は窒息してしまうだろう。すると這い上がるのはなかなか大変だろうし、できる人がお手本にならない。「あいつはできる奴だから」で自分に引き付けずにやめてしまうのではないか?

塾はまだ生徒を選べるが、学校はそれこそピンキリなので、かなり手当を厚くしないと、恐らく1年終わりあたりで、英語の授業は成立するが、英語能力は未熟不発達と言う事態になるだろう。今から後、半年ぐらいが妙な言い方だが「勝負」になる、と見ている。

ぜひこの夏休みを有意義に過ごしていただきたい、と切に願うものだ。