並びに論理整合性がないことが多かった

信じられないほどいい加減な並びをしていた教科書の例を最初に出した。
それでだいぶんマシになったとは言ったが、時々変なことをする体質は変わっていない。別の例では、時刻の表現の部分で、いきなり It starts at six.を紹介しているのだが、それで終わりで、反復はない。

そして、It is six (o’clock).が出てくるのは、その後のレッスンだった。やはり最初に「数字は個数と時刻の両方の可能性がある」を教えておいて、It is six.が「6時です」とし、その後、at six で「6時に」の意味です、とする方がすっきりする。でないと、複数形を習った後に、この文を見たり、聞いたりした人が、「It is six. は They are six.の間違いではないか?」と指摘することだって十分考えられるし、現にいたからだ。

これをやっているのが、また NEW HORIZON で「懲りない面々」と言える。まあ小さなことだから、いくらでも修正はきく。でも反復練習がなかったのは、やはり残念だ。あまり印象が悪くなると、肝心な時に、採用されなくなるぞ、と思っていたら、今回の英語新課程で、当塾がある地区の教育委員会は New Crown を選んでしまい、えらい目にあっている。

というのは、4月から他の種類の新課程用教科書を見る機会があり、今回に限っては、New Horizon が一番まし、いや一番よくできている、と思った。で、どうやら一番まずいのが New Crown のように見える。あくまで個人の印象だから信じなくてもよいけど。商機を逸したな、あ~あと思っている。もっとも中学校側にも見る目がないのだろう。

英語はともかく、数学ではこういうことは、現在はあまり見られない現象だ。作っている人が「論理的な人」だからだろうか?ということは英語の教科書を作っている人たちは、論理的でないのか?となる。

いやいや数学でもあったぞ、変な改訂が…

しかし今から20年前の平成10年(1999年)の高校数学の教科書改訂ではその「論理的な人たち」も、やらかしている。どんなのだったか、英語とは関係がないが、少し紹介しておく。教科書を作る部門がいかに適当なのか、がわかる例だからだ。

現在、高校数学は1年生で「数学Ⅰ」と「数学A」、2年生で「数学Ⅱ」と「数学B」、3年生で「数学Ⅲ」と「数学C」に分かれている。文系コースは「ⅠとAとⅡ」の履修が普通だが、最近はBとCまで大学受験で必要になる大学も出てきた。特に経済分野を志望する人は確率や統計で数学が必要だからだ。理系はⅢまで履修していないと、受験資格が取れないこともあるから、諦めて6分野全部履修することになる。もっともこれからどう変化するかはわからないが。

この「Ⅰ⇒Ⅱ⇒Ⅲ」のルートは、、確率分野が、ある時は「Ⅰ」、ある時は「A」に動くぐらいの小さな変更があるぐらいで「不動」のものだった。私が高校生の時はもっと量が多くて、「Ⅰ」の次は「Ⅱ」と「B」が合体した「ⅡB」で、これでもかというぐらい、きつい内容だったが、それでも、「数学Ⅰ」というのは「高校数学の基礎中の基礎」で、「数と式の計算」「不等式」「二次方程式」「二次不等式」「二次関数」「三角比」という今後「使えるテクニック」が目白押しの、絶対にはずしてはならない分野だった。そしてこの並びも「不動」だった。

しかし平成10年の「改訂」ではそれを完全にぶち壊し、「Ⅰ」はいきなり「二次関数」で始まり、その分野の後半に「方程式」と「不等式」を入れる「荒業」を使い、その後「三角比」に入るというルートを設定した。そして「A」になぜか「数と式の計算」「式の証明」が入り、まあこれは少し我慢するとしても、第3章に普通なら伝統的には「Ⅱ」か「B」に入っている「数列」が来て、さらにその後に「平面幾何」で、平行線と比とか三平方の定理とか中学でやっているようなことを復習した後、チェバ、メネラウスの定理をやって…と続き、最後に軌跡をならうという「謎の配列」だった。

社会実験というには酷過ぎる

当時知り合いだった数学の講師が、「めちゃくちゃだ…」と絶句していたのを覚えている。私もびっくりした。それから、塾も大変だったが、もちろん生徒も学校の先生も大変で、補充プリントの嵐だった。

さすがに非難が文科省に届いたのだろうか、この「改訂」のルートは3年ほどで消えてしまい、今のルート、つまり元に戻ったのである。壮大な社会実験と呼ぶには、あまりにもアホ過ぎて、数学ほど論理的な学問はないはずなのに、それを主導する文科省がいかに論理的でないのか、分かった気がした。

官僚の世界では財務省に勤める官僚が1番偉くて、文科省に勤める官僚は一段も二段も下に見られている、という話は知っていたが、変に納得したことを覚えている。同じようなことをこの前の共通テスト導入でやっていたが、この平成10年の「悪改訂」の目撃者である私は、あの構想が結局、尻すぼみになってしまったのを見て「進化していないな」の感想しかなかった。

今回の「英語新課程」も「まさか社会実験じゃないよな」と疑ってかかっている。ことほど左様に「現場を知らないエリート参謀」が建策する作戦が引き起こす被害は凄まじいということには、注意しないといけない。