国語の問題を解くのだが
高校入試が近くなると、国語も3年生は課題を出して、解説する。簡単なものをやっても仕方がないので、偏差値で言えば、60以上の関西学院とか関西大倉レベルの問題をやることが多い。
この時、毎年思うのだが、このレベルの学校になると「中学生がこんなこと、ホントにそこまで気が付くかなあ~」という内容を文章にしてくる。
特に「死」をテーマにするものは難しい。対象は、肉親だったり、ペットだったり、場面は介護だったり、事故だったりさまざまだが、「死」は「死」だ。さすがにハイデッカーなどは直接出ないけど、「あ~この筆者はかなり影響を受けているな~」ということもある。
どっちにしても、中学生ぐらいでは「死」は身近なものではない。ごくたまに不幸な事件が身近におきる学校もあったが、普通はあまりない。祖父母がそばにいない家庭が多いから、特に最近はそうだ。「生病老死」が実際に進行する場面を見ていない。
なのに、国語の入試問題で出るのはなぜだろう?
ここで自論を述べておくと、国語の読解力は2面あると私が考えていることにつながる。1つは字面を追って、助動詞、助詞、接続詞、あるいは呼応の副詞や否定語に注意して、まさに「オモテだけでも文の意味が分かれば良く、それで点数を取ることを主眼とした読解力」。
もう1つは「筆者が言いたいことを、裏面まで読み取る読解力」。
「形式読解力」「実質読解力」がある
私は前者を「形式読解力」、後者を「実質読解力」と勝手に名付けて、呼んでいる。後者は普通は洞察力と呼ばれるだろう。
中学生、あるいは高校生小学生には、年齢を重ねないと理解できない世の理不尽さは、いくら賢い生徒でも、理解できない。仮に理解できても、実感はできないだろう。またその男子生徒や女子生徒がいわゆる「オマセさん」だったり、仮に性交経験があったとしても、男女の機微はまだまだ理解できないだろう。白状してしまえば、私にもよくわからない。
つまり大半の中学生、あるいは高校生などに「実質読解力」を期待することは、よほどの読書家か、変な話「見た目は子供・頭脳は大人」でもないかぎり無理だ。
そんな人たちに、以上のようなものを敢えて出すのは、世の中学生は、私の言う「形式的読解力」すら持ち合わせていない人が実はものすごく多くて、そのような人たちを排除するために、あのようなレベルの出題がある、と考えている。
現場では「形式読解力」でウロウロしているレベル
こういう話をすると「私の言うところの読解力とかけ離れすぎている」と反論する人もいるだろう。しかし現在の世の中の子供たち、小・中・高校生たちは「この程度」もできない人が非常に多い、という現場の事実を知らないのだ。
英語もそうだ。今年度から英語は「大改訂」があって、中学校に入った時点で300個ぐらいの英単語を知っていて、読めて、書けるという前提になっているが、その前提そのものがまだ構築されていない。簡単に300個と言ったが1年間で覚えるなら、50週のうちに毎週6個~10個の単語テストを実施し、たまに総まとめテスト100個を実行しなければならないが、実施している公立の小学校は一体何校あるのだろう?
国語でもいわゆる「てにはを」の使い方で、「電車にバスが突っ込んだ」と「電車がバスに突っ込んだ」では全然違うし、「時間はある」と「時間がある」の文は表す意味が全然違うのだが、その正確な違いを指摘できる子供は10人のうち何人存在するのか、教師は確実に把握しているのだろうか? まさに形式的読解力はそこを突いてくるのである。
まだ続く。