1年ほど毎日パソコンを触っているうちに慣れた

Word は WORD 2000 になり、より機能が強化されたことを利用して、図とかイラストを気軽に使えるようになったのが嬉しかった。例えば、今では当たり前に図の中に文字を入れるが、WORD 6 とか 7 ではできず、2000 ではそれができるようになった。図がずれることもなくなってきた。

当時ワープロソフトは「一太郎」など、他にも結構いっぱい出ているが、ある程度乗り心地が良いなら目的地に着けば車はどれでも同じ、というぐらい適当人間である私は、面倒なこともあって、そのままずっとWordを使っている。

2001年に起きたアメリカ同時多発テロが起きた。卒業生がその時、ニューヨークにいてツインタワーの崩壊を目撃し、帰国後彼女の報告を聞いて、無事を祝った後、「あ~やっぱり人間どこでいつ死ぬかわからんな」という思いを、さらに強くした。それで今まで作りためていた文書を集め直して、一応、2001年の終わりには、今の原形みたいなものができた。しかしどーも中身が固い。だんだん子供が子供化していく世の風潮を見ていると、こんなのは無理だな、と一旦お蔵入りになり、構想を練り直すことにした。

教科書は少しマシになったが、人材が…

英語の教科書は2000年から次第に以前よりは「まし」になり始めていたが、相変わらず、反復の練習は入っていなかった。現在は少し修正されてはいるが、運営側、つまり学校の進め方次第なのは頼りがない。これは文科省側で反復練習の教材をどんと作ってあげるほうが良い。

その後、ゆとり教育の廃止になって、英語の教科書は大きく変化した。でも私に言わせると、元に戻っただけだ。ただ人材という点では、20年の間の人的損失の方が大きかったと思う。学校の先生の指導にそれが具現化されている。

例えば1980年代は「自習ノート」という提出物があった。つまり教科書が頼りないから、教師側の自主防衛手段で、何でも良いから英語を書いてきなさい、という宿題だ。「何でも」とは言っても、特に教材があるわけではないから、多くの生徒は教科書を丸写しして提出するだけだ。しかしそれでも、十分に効果はある。「素読百篇意おのずから通ず」、刑事ドラマでは「現場百回」、四字熟語なら少し外れるが「温故知新」という。

数学でも有効なのは「その問題、今のあなたは、もう一度完璧に解けますか」を試し、何度も実行することで、それを成し遂げた者だけが、成績が上がる。頭の良い人でも油断は禁物だ。、もちろん、覚えていない人がいくら授業を受けても、それは「ザルで水をくむ」ようなものだ。

教科書ほど「放置虐待」されている存在はない

よほど記憶の良い者でないと教科書の中身など覚えていない。しかし1度習ったことでも、また読めば、何か新しい発見があるかもしれないし、記憶の強化にはなる。そういう地道な作業自体が「絶滅危惧種」になっているし、それを復活させる風潮も、発想もない先生が多くなっているような気がする。

そして「会話」を重視するため、スピーチなどを計画しても、元々元気よく自分の意見を話す人の方が日本人では珍しい。「中身」の改革がないのに、英語という「道具」だけを押し付けても、無理なのではないか。

疑問詞の取り扱いに戻る。
一番困っているのが「誰が~しますか」の「主語が疑問詞になる場合」の記述が、教科書内に大きく取り上げられていることがほとんどないことだ。つまり、

Who makes dinner today? とか
Who can play the piano? あるいは
What made him sad? などだ。

それこそ日常生活で「使いまくり」ではないのか?
これは高校の英語に格上げになっているようだ。なんだかんだ言っても、生徒は教科書を信頼している。
そこに記述がないと「軽視」してしまわないか?私なんかはそんなところを心配している。
VITALs はそういうところも重要視して、例題を設け、練習問題もたくさん入れた。