読解力がないのが一番痛い。

そこで読解力を身に着けるために、本でも読んでもらおうとしても、それ以前に「読む気がない」問題もある。このような「誰かに教えてもらおう」という姿勢が定着してしまっている人は、大変危険な状態にある。

それならある程度「読まないといけない」環境に置いて、同時に脅迫しないと、動かない。自発的なことは期待しないことだ。待つだけムダである。その時、自分の保護する子弟なら、多少他人と比べてもいいと思う。それはやったらだめだ、という人が多いが、かなり目に余る場合はやっても良いのではないか、と私は考える。

暴力では事は解決しない、と言われるが、残念ながら、この世を動かしているのは愛やお金だけでなく、時に暴力もだ、という認識は外してはならない。革命も戦争も原子爆弾も、最近北朝鮮が行ったとされる水素爆弾でも、その結果、世界が動いているのは事実だからだ。

暴力が言い過ぎなら単純に強制力と呼んでも良いだろう。そして、どうやって脅かし、危機感を持たせるようにもっていけるのだろうかを探り、言葉による説得と、環境の変化、気が付いた後の習慣化への移行を目指さなければならない。

社会に出れば他人と比べられ、それが収入や社会的地位に反映していく現実がある。その現実を早めに教えてしまっても、絶対的に悪いというわけではない。ただしある程度の信頼関係=人の和があることと、多少、和が傷ついても、修復が可能な状況にあること、が前提だ。そうでない場合は、とりあえず習慣化を狙うだけにした方が良いだろう。

いつから読まなくなっていたのかを思い出して、遡る必要もある

次に、ご自分の子弟が「いつぐらいから本を読まなくなったか」をじっくり思い出す必要がある。例えば今中学2年だからというので、中学2年生に向いています、という推薦図書を読まそうとしても、本人のレベルが低くて、ダメな場合がほとんどだからだ。これはかなり前から、読書から遠ざかっていることを示す。極端な話、書物が眼に入っていないこともある。

もしかすると絵本レベルから全く読んでいない場合もある。それなら絵本から始めても良い。案外本人は楽しんで読むこともある。現にそういう高校生もいて、彼はそこから始めて鳥取大学に合格した。一番面白かったのは「百万回生きた猫」だったと証言している。

これは英語の勉強でも同じだ。元々、どの国でもその国や地方の言語を教えるのは、最初は「語り継ぐ者」だ。文字ではない。風の谷のナウシカに出てくる盲目の老婆のような人が、幼児に物語を「語り継いで」行く過程で子供は言葉を覚え、文字に入っていく、が民俗学の常識のようなものだ。日本でも老人と子供がいっしょにいる姿が御伽草子などで紹介されているのも、その表れだろう。

その段階をすっ飛ばしていきなり読め、と言っても無理がある。
最近の保護者は早急な結果を求める傾向がある。これはまずい。考えもなしにスマホを与えて「どうしたらスマホ依存を治せますか」と困っているのと同じかもしれない。そのような相談を受けても、私は「それは親の責任です」と答えることにしている。もちろん後で閲覧制限をするとか、もう一度話し合いをしてなどと、フォローはするけど。

もう少し続く。