好きだけど、得意とは言えない

グラフからわかることはありていに言って、「好きだけど、得意とは言えない」だ。
そう、これが問題なのだ。
英語が好き、でも単語は不正確。だからペケ。
数学が好き、でも計算は不正確で遅い。だからペケ。
国語が好き、でも文の意味が正確によくつかめない。だからペケ。
理科が好き、でも実験の意図が正確に説明できない。だからペケ。
社会が好き、でも誰が何をいつしたか、その制度の意図は何か正確に説明できない。だからペケ。
これはすべて繰り返し練習の不足に尽きる。執念深さが抜け落ちているのが原因だ。

定番の問題はきちんと習っている

学校の教科書や問題集は、前の記事で紹介したように、定番の問題をきちんと取り上げ、その説明も年ごとに詳しくなった。私が中学生のころとは大違いだ。

「ゆとり中」は教科書が説明不足だったから、問題集で補っていた。ワシントン軍縮会議で「戦艦は作るな」と決まったから、「補助艦やら潜水艦を増加させた」みたいなやり方でもあるし、「ハードの能力をソフトで目一杯伸ばす」やり方でもあり、教科書作成側の抵抗に私には見えた。

今は制限がなくなったから、さらに進化し続けている。目に見えるようになっただけで、元々は結構たくさんあったのだ。

例えば新しくなった数学の教科書に、こんな部分があったのでびっくりした。前よりもぐっと詳しくなっている。もちろん問題集には、ず~と出続けていたのではあるけど。これでは分厚くなるのは当然だ。でも「新しいもの」を追加したのではない。

つまりただの練習不足

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いやここまで書くか、すごいな~最近の教科書は!と感心した。今までは授業で補っていたのに。これは理科の教科書にも見られる現象である。

で、生徒は?というと、できない生徒は、時空間を超えて、全くやることが同じだ。教科書は読んでいないし、すぐに人を頼る。ひどいのになると、教科書を学校に置いてきた、ともいう。そして、点数が取りきれないのは、正確にできていないからだ。これは「ゆとり前」「ゆとり中」「ゆとり後」も同じだが、1990年代から固定化した実感がある。特に平均点以下=中低レベルからの崩壊は激しい。

教科書に説明が抜けている時代でも、問題集には「定番の出題」はきちんと載っていたことは「証明」した。つまりごく一部の能力が低いか、職業規範意識の低い教師を除いて、まともな学校教師は、ある程度は説明しないといけないことは、説明をしているし、補充プリントで出題もしている。問題集に載っている問題を少し変形して、テストにも出題されていたことは、私が証言する。

習慣をつけることが一番、という平凡な結論

授業と生徒の習熟度の差は、まさに「新学力観」の弊害で、「ゆとり」のせいではないと、言い続けてきた理由をようやっと述べ切れた、と思う。

生徒≒子供の側の「向上心のなさ」は色々なケースがあり、人それぞれだから、今は触れない。しかし国の方針やスローガンなどに関係なく、できない生徒、やらない生徒の行動は一致している。そして中学3年生になったときに慌てるのだ。

そこで親・保護者はご自分の保護する子弟が「教科書や学校指定の準拠問題集を読まない人」であるかどうかを、まず見極める必要がある。次にノートの点検だ。ただしその際「刑務所の看守さん」みたいな態度はやめる。

もし「やらない人」に当てはまる場合は、時刻が来たら、強制的に、あるいは優しく促して、5分は教科書を読むことを、3日続けさせて、次の3日は6分、次の3日は7分と、1分ずつ増やしていくことだ。それ以外手はない。これは「計算ミスを減らす方法」でも採用したが、どんな科目にも当てはまる。

テストに持ち込めるのは、自分の頼りない頭と筆記用具だけ

前にも言ったが、仮にタブレットやスマホが持ちこめても、時間制限や順番制限は絶対にあるだろうし、恐らくは「主題」を最初から複数題与えられて、その場ですぐ書け、という形式をとるはずだから、やっぱり正確に覚えている人が時間を有効に使えるので、有利になるに決まっている。

またこの形式で来られたら、現状の国語力では3分の2以上の生徒が「落第点」になるのは、目に見えているのは、さきほど紹介したサイトのデータでも明らかだ。それならまだ覚えてこい、のテストの方が「絶対にマシ」だ、と悟らせた方がよい。覚えたって無駄だ、調べることが簡単な時代なのだから、と反論する子供には今の再反論で黙らせて、納得させることが親・保護者には可能だ。

よく貧困家庭で学校に行けず、低学力のまま大人になってしまう人の話は、ネット上のどこにでも見られる現象になってしまった。でも私の目には経済的な貧困家庭でなくても、「勉強的貧困」の家庭環境の子供も結構いる。そうなっていないか、親・保護者はまず我が子の点検から始めるべきだ。