入試問題を解く時期が来る

そろそろ高校入試問題ばかり解く時期に入るので、楽しみでもあり、面倒だなと思う気持ちもあり、複雑なところだ。しかしこれほどの問題をよく考え出すな、と感心するほどのものが多い。特に高偏差値の学校で私立高校はそうだ。どんなスタッフがいて、どこの外注組織なのか、とても興味がある。

例えば、近辺の人気学校の中で雲雀丘学園というのがある。国立大約60名、私立も東京、京都、大阪を総なめで、延べ500名合格する学校だ。すごいね。

でも私立高校なので、学費が高い。行く人は限られている。そこで当塾は高レベルの公立高校を狙う人たちの「練習台」として、雲雀丘学園の過去問を利用させてもらっている。

時々の出題で数学には補助線が必要なのものは本当に難しい。補助線には色々なレベルがあるが、たいていは「自分たちが知っている形」にもっていくためのもの、というのはある意味「常套手段」だ。この手の問題を解き、説明しながら、ここで「学力とは何か」をまた考えてしまう。

「型」を覚えないでどうするのか?

よく「型にはまった考えを押し付けるな」とか「型にはまった考えでは役に立たない」と言われる。で、「型」って何だ?と考えてしまう。「型」を教えることは悪い事なのか?とも考える。

英語でも理科・社会でも、あるいは国語でも同じだと思うので、とりあえず数学を例にあげる。
数学の問題の解き方にはある程度パターンがある。一番最初は、それがモロ出しの問題、つまり教科書の例題の次ぐらいにある練習問題はそのパターンを使って解けるようになっている。これは英語でも理科でも同じだ。

あくまで経験から言うので、根拠はないのだが、約60%~40%の人たちはまずここができない=覚えていないので「問題が解けない」という。これに対処するには「覚えなさい」しかない。

覚えるためには時間をかけて=時間を作って=時間を捻出して、何回も解き直すしかない。普通の能力を持った人どうしなら、そういう時間を持てる人がぐっと有利になるだろう。なるべく平等の方がいいが、世の中の「果実」には数に制限があるからだ。

「覚える」作業を強いることを「型にはめた教育だ」というのだろうか。私にはどうもそこをはき違えてきたことに、昨今の教育の混迷がある、と考えている。

その上に難問題がある

数学がよくできる人が最終的にたどり着く問題集の一つが「数学問題精講―高校入試」だ。数学オリンピックに出た問題も収録されているので、完全に「グローバル」なレベルだ。いきなり表紙から「挑戦状」が始まる。

旺文社は「オタク」的な問題集を出すのが好きみたいで、他にも「受験生の50%以下しか解けない差がつく入試問題数学」などを出している。

当塾でも、数学ができて、好きな人に最終的に渡すのが上の2冊だ。「おお、これは!」と言いながら、喜んで読んで解いたり考えたりしている姿を見ると、こちらも嬉しいのだが、後はもう本人が勝手にやっていくだろう、私の役目は終わったのだ、と思うと少し寂しい。

でも「型」を覚えることができたから、ここまで来たのだ。 型を覚えることによって自由を得たと言っても良い。こういう人は高校数学でもまずコケたりはしないどころか、どんどん進んでいく。それを見ているだけでも楽しい。

まだ続く。