不登校問題はデリケートなものが多く、一概に言えない。

できれば不登校になる前に、原因の芽を摘み取っておくことだ。不登校になると、変な言い方だが「不経済」だからだ。そして、あくまで私が出会った範囲内での不登校に関する出来事は、「学力と関係ある」場合が多く、解決方法は単純には「学力を上げること」につきる。

ただ単に勉強が嫌で、成績が悪いだけでは、あまり不登校にはならない。きっかけは揶揄なことが多い。誰でも自分の欠点や弱点をからかわれたりすると不愉快になる。そこでの「言葉の切り返し」があれば、揶揄いは終わるが、そううまくいかないのが人生で、しどろもどろになったり、痛い所を突かれたので、怒り出したりして、余計に揶揄いの度合いがひどくなったりする。そこから発展・悪化して、不登校になる。

容姿の美醜、身長の高低などは努力ではなんともならない場合もあるから、その点を突かれてからかわれるのは気の毒としか言いようがない。そんなものを揶揄いの対象にする相手が悪い。人間として最低だ。

それに以外のもので、やはり特に勉強の出来不出来で揶揄われたり、ひどい場合は馬鹿にされたことが多い。その時は、「倍返し」ではないが、できれば不登校になる前に、その科目で相手を圧倒できるまで勉強するのが良い。

成績を上げるには「人が悪い」方が良いという皮肉な真実

勉強→テストの成績となると、単に頭が良いだけでは点数は上がらない。これもよく皆に言うのだけど、「あがり症と、まぬけと、オッチョコチョイ=あわてんぼうと、記憶力が弱い人は、点数が取れない」からだ。こんなことを言うと、「生徒が傷つく」とか「保護者から何を言われるかわからない」のであまり学習指導者ははっきり言わないが、本当のことだから仕方がない。

逆に言うと、人を喰っていて、抜け目がなくて、慎重で、記憶力が良い人は、たとえその人があまり賢人でなくても点数を取るのは上手だ。でも中々治らないのが「まぬけとオッチョコチョイと記憶力が弱い」だ。特に中学生になるまでに、まじめに勉強したことのない人とか、スポーツクラブばかりに通っていて、あまり勉強には関心がなかったりすると、急にはうまくいかない。

ある意味純粋で、だまされることはよくあっても、だましたことはない善人とも言える。相当の刺激を受けて、あるいは屈辱を受けて「なにくそ!」と思わないと、点数は取れない。「まぬけとオッチョコチョイ」が自分の習性になってしまっている、と言ってもよい。以上の点に注意して、何回も繰り返して練習すれば、ある程度の点数は取れるから、その時に、からかってきた級友を見返してやればよい。

一番困るパターンが「なんとなく始まってしまった不登校」。

誰でも、朝起きて、学校に行って、級友と過ごす時間をうまくやりぬけて、授業を受けて、クラブ等をやって帰る、風呂に入る、宿題する、寝る、また起きるを繰り返すのが、カッタルクなることもある。そうなると軽い気持ちで休み始めて、最近の親御さんは妙に理解があるから、「行かなくてもいいよ」となる。これは男子に多かった。あるいは他人の目がどうも気になる、気になってしかたがない、だから学校に行きにくい、という人もいた。これは女子に多い。いじめが原因でもなく、学業が原因でもないので、私はこれを「なんとなく不登校」と呼んでいる。

この場合、内申点がゼロになってしまうので高校入試で「援軍」「援護射撃」が期待できない。だからまさに実力勝負になる。このような「弱い人」が、当日の一発勝負でうまくいくのであろうか? そんなに修羅場をくぐっているのだろうか。

例えて言うなら、あるスポーツの練習には全然来ない人が、急に試合の日にやってきて、「試合に出せ」と主張するのと似ている。その人が上手なら出してもらえるかもしれない。でもそうでもなかったら「寝言は寝てから言いなさい」と言われるのがオチで、そもそも普通の人には無理な話だ。

「なんとなく不登校」が続いている人が塾に来て、「高校に行きたい」と言う時には、覚悟して不登校しているのかどうかを尋ねる。ついでにこの喩話を伝える。他人の目が気になってしかたがない、という人には「誰もあなたをそんなに注意して見ていないと思います。現に誰もお見舞いに来ないでしょう」ということにしている。当方は現実的で非情な話しかしないので、ヒヤっとして目が覚めたのか、たいてい、次の日から学校へ行き出す。たまたまうまく行っただけかもしれないが、見知らぬ人間の前に現れたということは、きっかけが欲しかったともとれる。

これに反して、覚悟して不登校をしているのなら、「他にも道はある」と教えて、それを後押しする覚悟をご家庭もするなら、なんとかなるかもしれない。具体体には、中学卒業の後、高校認定テストを受験することになるだろう。学校へ行くことと、勉強することは「違う」ことだからだ。

よって家族は、覚悟して不登校をしているのか、そうでないのかを見極めることが必要だ。