今も教育現場を支配する「新学力観」

1989年に定められた「新学力の定義」によって教育現場は大きく変わった。テストを受けて点数が高い→成績が良い、がそれまでの普通の考えだった。それが授業への関心・意欲・態度が評価項目の一番上に来て、それまで重視されていた「問題を解く技能」や「得点力」が一番下になった。

その結果何が起きたか?
「得点の良かった人より、先生受けする人が良い成績を取るようになったから、当時の塾の先生たちは、内申点を上げるには、とりあえず手を挙げて、当たったら『(やっぱり)今、考え中です』って答えれば、意欲がある、態度がいいと評価される、と指示した」

「中学生、小学生の授業では、いかに先生にいい子と思われるかという“ショー”になった。授業中に「ここの問題わかる人?」って聞くと、みんな『はい!はい!はい!』と、いきなり手が挙がり始めた」と識者は言う。

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ちなみに対談者の原田洋平氏の父上は、コロナワクチンの接種を受けた帰宅後すぐに副反応が出て、かなり苦しんでおられる。

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加えて「ゆとり教育」の導入だ。「ゆとり教育」はそれまでの詰め込み教育の弊害をなくそう、として決まったことで、ライン的には以上2つのこととは無関係だったが、結果的には「とどめの一撃」になってしまった。当時の教科書の様変わりは、ハル・ノートを見た東郷外相のセリフのように「目も眩むばかりの失望」に襲われた人も多かったと思われる。

その当時、私は何をしていたのか

なぜか高校生の大学受験指導に力を入れていた。なぜか?というと、本当になぜかはわからないが、やたらと優秀な生徒ばっかり集まり、中学を卒業しても、そのまま「まだ教えろ」と、それこそ強要する人が、各学年に10~5名前後いたからだ。

実際に極めて優秀だった。1980年代後半から1990年代前半の大学入試というのは、今と全く違っていて、有名どころでは倍率が10倍なんて当たり前だった。さらにセンター試験が導入された。

なのに、あの7~5年間は、大阪大学を始めとして地方国立大にも合格し、関関同立完全制覇なんて軽くやってのけた。今でも、なぜ私なんかに寄ってきたのか全く分からない、優秀な30人ぐらいの生徒たちだった。彼らのうちの数人は今でも付き合いがあって、結婚式に呼ばれたこともあるし、各省庁や大企業、ひいては自衛隊などで、重要な地位に就いている。

彼らへの学習指導は本当に楽しく、今から考えても夢のような時間だった。その指導経験は、私の一生の財産で、あの7~5年の経験で今の私がいる、と言っても良い。

幼い中学生から、多感な高校生へと成長し、見事な合格実績を残して去っていった、彼ら彼女らと、過ごした期間のことを思い出すだけでも、自分の人生は無駄ではなかった、と思える。平凡な塾講師にすぎない私にとって、まさに「キセキの世代」で「伝説の若きヒーローとヒロインたち」だ。

大学受験に注入していたため、まさにこの1990年後半の期間、実は中学生のことに、少し気が回らなくなっていた。もっとも気が付いていても、崩壊を私ごときが防げるはずもなかったが。彼らが去って、もう大学受験指導はいいや、あんなのは彼らだからできたことだ、それに人件費もものすごくかかるし、と、見切りを付けて、また中学生を教えることに専念することにした。そして…。