教科書には制約があるのが前提

官僚は優秀な人がなるのだろうが、昭和10年代から、平成そして令和の世になると、ただ優秀なだけで、現場・現状を知らない人が多いようだ。悲惨な例ではガダルカナル島の戦い、近年では例の「アベノマスク」だ。マスクの件では「これを配れば、国民の不安がぱっと消えますから」と助言したらしいが、ジョークなら30点だし、本気なら0点だろう。もちろんその助言を「そうか」と受け入れる側も大概だが。

さて教科書にはどうしてもページ数、学校には授業時間・授業回数という制約がある。あまり分厚いものだと持ち歩く気になれないし、行事があれば授業は潰れるもの、という前提がある。

もっとも、その点がわかっていなくて、無限にある、と思っている迷惑な感覚の学校教師も多い。だから試験前1週間で、すばやくテスト範囲までを片づける、「神の御業」を持つ教師もいる。その手腕にはうっとりしてしまうほどだ。毎回その神業を見せつける教師もいる。

授業が映像で保存されているわけではないから、記録の上ではテスト用紙の結果しか残らない。つまり歴史書と同じで、文字が真実に化ける。紫式部が「日本紀などは、ただかたそばかし」と、源氏で書いたのとは、少しずれるが良く似ている。

流行に左右されないものが欲しくなった

そのころからだろうか。漠然と「教科書の作りに左右されない教科書を越えた『生徒がコケルところをすべて網羅した基本書』があればいいな」と思った。

もちろんそんなもの、ない。

なければ自分で作るか、と大それたことを考えていた自分を今でも覚えている。 あれから私は色々な英語教科書、英語学習参考書、文法専門書などを読んで英文を集め続け、ノートに写していった。

なんでこんなことを考え、始めてしまったのか、良くはわからなかった。

笑い話にするなら、運命を司る神から、19才にして「戦線に参加せよ」という「召集令状」が届いたのかもしれない。「神勅」が下ったのなら、人間の身としては、従わないわけにはいかない。(^^;)

大学を卒業した時、気が付けば私は「塾の先生で経営者」になっていた。今でいう「起業家」だが、そんな自覚もなかったし、今もない。起業家を名乗るほど、こんな斜陽産業では儲けていない。いや、かつかつの生活だ。だから、ネットで「起業!」と言う文字を見ると、なんだか気合いが漲りすぎていて、今でもひいてしまう。
就活とか婚活とか言う文字を見ると、「大変な時代だなあ」と思えて、別世界のことみたいに感じる。

単に通勤電車に乗るのが嫌で、元々1人でいるのが好きだったし、結婚とか、将来のことも全く考えていなかった、かなり適当な人間だから、この選択に異存はない。むしろ変に就職して人間関係に悩み、脱落したり、会社が国際化の合併再編吸収の波にもまれ、結局倒産して露頭に迷い、世を恨んで、極端には「日本イスラム支部」など設立して、テロリストになるよりは良かったんじゃないか、と思っている。もっとも本気でやる人もいたりして。

「こうだったら良かったのに」と悔しく思うのは人情だが、「ああならなくて良かった」も大切だろうと思うのだ。