中学生ぐらいだと、「常識」に欠けている人も多い
熱心に勉強しているのにあまり成績が伸びない場合、色々な原因が考えられるが、その子が「常識的なことがわかっている、常識的な行動ができる人」か?というチェックもかなり大切だな~と思う場合もある。
普通は年を重ねるごとに、常識的発想を得ていくもので、そんなことは意図的にする必要はない、と思いがちだ。しかし、元々子供というのは「聖なる原始人」で、精神の幼い人の場合、「非常識」なまま、年齢だけ重ねることが多く、チェックを入れて、ひっかかるときは意識的な指導が必要になることを忘れてはならない。
「うちの子に限って」という有名なセリフは、大きな事件だけではなく、日常の小さな、どんなことにも当てはまる可能性がある。
しかし問題なのは「個性的だ」と「常識がない=言動が変だ」は区別が難しいことだ。
特に「個性」を強く求める社会になっているので、その「個性」は大丈夫か?という観点や発言、判断を抑える傾向が強いから、判定そのものも実施されない。
例えば「本を○○する」の文に何を補充するのか?と尋ねた時に一番常識的には「本を読む」とする。
もちろん「本を書く」「本を出す、出版する」「本を買う」「本を忘れる」でも十分OKだ。
特に「書く」とか「出す」とか答えてくれるとなんだか嬉しいし、「忘れる」と答えられたらちょっとがっかりかもしれない。
ここで、もし「本を焼く」とか答えたら「おぬし、『史記』の焚書坑儒を知っているな」となり、10代にして「個性」を持ったズゴイ答えと言える。今までで、3人ほどいた。
常識的でない反応をする場合は注意する
しかし「本を見る」「本をめくる」と「発想」することは大丈夫だろうか?
確かに「絵本は見る」かもしれないが「普通の本を見る」と考えるのは見極めが足りないのではないだろうか?また「めくる」のは「ページ」の方が正確で、本なら「開ける」ではないだろうか?
もちろん今の例は極端すぎることは承知の上だ。
しかしご子弟に「本はどうするものか」と質問してみて妙な答えをする場合で、その妙な答えは「個性的だ」と判定できるものなら、まあ良い。しかし「常識的なもの」を逸脱していると判断できる場合は、勉強する時に少し障害になるだろう。
発達障害の人などはお礼を言う場面がわからないことがあるらしい。そう言う場合は、映画などをいっしょに鑑賞して、この時はこうだから、あの人はこうしている、と親・保護者が解説していくと、次第に「場面」を覚え、実生活で応用していく。
普通発達の子供も同じように、そもそも常識とは何か?、この場面における常識は何か、などを親子で日頃からよく話し合っておくことがものすごく大切だ。
「常識を破るのはいいが、非常識になるな」と誰が言ったか忘れたが、言い得て妙だ。しかし普通の人間が常識を破ると、たいてい突き抜けて「非常識」に突入するから、やはり常識は守った方が良い。そして話は元に戻って、その前に常識を知ることになるだろう。