国語の問題なら「誰でも」参加できるから

数学や英語でオバカなことをやっても、まだ許せる場合がある。数学も英語も「非日常的」なところがあるし、「決まり事」が多くて、できない人には極端な場合「無縁」な世界でもある。また数学や英語、あるいは理科ができなくても「アホだな~」とは、あまり認定されない。むしろ逆に、英語や数学が異常なぐらいできる人は「英語オタク」とか、「数学馬鹿」とか言われてしまう。クラスにも一人や二人は、いるはずだ。真面目で熱心なのに、アホ扱いとは少し理不尽ではないか。

しかし、国語の授業で、馬鹿な発言をしてしまうと、「こいつアホだ~」と、そのものずばりで認定されてしまう。

なにしろ使っているものが「日常的」な日本語だからだ。言葉が足りなく、精神が幼稚で、発想が貧しい人は、ものすごく恥をかいて、後々可哀そうなことになるのは目に見えている。

そのショックは英語や数学で失敗発言・失敗解答をするより、かなり大きいだろう。 そして失敗を乗り越えよう、という気力なんか起きなくなるのではないか?

学校の先生はそれがわかっているから、あまり「真剣な国語の授業」をしないし、できないのではないか?

教師側もあまり期待していないかもしれない

また実際、「優秀な」「野心に満ちた」先生ほど、学校を辞めてしまって、塾を開いたり、本を出したりしている。これは反応の良い生徒を教えてみたい、という潜在的な欲求からだと思う。

塾を開くにしても、成功の確率を高めるために、近所の学校のレベル、住民や住宅街の造りと住民の質などをリサーチして、「教育意識の高い地域」と「交通アクセスの良い所」を選んでいるはずだ。勝てば味方は勝手に増える=評判が良くなれば、アクセスの良い点を利用して、多少遠い所からでも、さらに良い生徒を確保できる。人生は短いから、宮本武蔵みたいに「勝てる時期と場所」でしか勝負した方が良い。

「指導の場所や空間と対象」を選んでから、始めている、あるいは「自分を選んでくれる生徒」を得やすい環境を整えている、と言い換えてもいいし、少しきつい表現だが、国語に興味のない生徒は最初から不必要、の前提を構築している、としても良いだろう。興味のない人、やる気のない人に付ける薬はあまり存在しないからだ。極めて賢明な態度と言える。これは皮肉で言っているのではない。

でも学校に残っている先生が優秀でない、とは言わない。むしろあまり良くない環境で、窮屈な思いをしながらも、それでも国語力を高めようとしているのは確かだろう、と私は推測している。

となると、普通の公立中学校・小学校・高校でも、もっと効果的で、もっとまっとうな国語の授業を展開したいのであれば、言葉をたくさん知っているか、そうでないか、あるいは中間ぐらいか、に生徒をバッサリ分けて、授業をするしか手段はないのではないか。

これが改革だろう。
もし大学入試改革をするのであれば、国語力の強化は不可欠だ。思い切って国語力レベル分けをしないと、伸びる人も伸びないだろう。

「学校で国語の真面目な授業ができないのは、指導する学童が、アホをさらけ出すことを避けているからだ」という事実を、正面から見据えて、そこを突破する勇気のある公教育の教育者はいないのか?