読解力がないと散々長年言われているが

最近の子供たちは国語力=読解力が足りないと言われる。私に言わせると、最近どころか、ここ30年ぐらいずっとだ。また底辺レベルの崩壊はすさまじいものがある。これは学校という「建前の社会」では見抜けない。もし見抜けていたのなら、以前に書いた「なかなか自分の解答や考えを言わない人」をすぐに見抜けて、修正を図ることができたはずだ。

また学校では「読解力」を付ける専門の授業は、ないままだ。私自身も中学校や高校で、そういう授業を受けた記憶はない。ではどうやってそれなりに、読解力を養成したのか(養成したとは思う)というと、巷の参考書を読み漁って、「接続詞に注意しろ」とか「つまり」はまとめだ、とかなどを知って、自分なりに応用したからだと思う。

当時タイミングよく、「現代国語読解」をテーマにした、今流行の参考書の「走り」みたいなものが、数冊出版されていたので、それらを読んで問題に向かった記憶がある。つまりほとんど「独学」だ。

それから現代文に良く出る「単語」を、辞書で調べてノートに書きだし、覚えるようにもした。例えば「形而上学的な意味では」など、日頃目にしないような単語などだ。今ではそれらが「現代文キィーワード集」などの名前で売っているので、便利な時代になったなぁと感心している。

でもそれらを使っているのは、たいてい偏差値60以上の学校に通っている人たちで、それ以下の学校の人たちは、教えられてから「そんなものあるのか」と言うぐらい関心がない。高いレベルの人も低いレベルの人も見てきた私が言うのだから間違いがない。上の人と、下の人では、もうまったくお話にならないぐらい「かけ離れている」という事実は、国語力にもあてはまるのだ。

さてこれがイギリスとかになると国内の歴史的な詩人の歌を暗唱したりすることで、「名文」に触れることから、読解力開発への興味をわかせたりする。しかし日本ではそれもあまりない。「詩の宝庫」を持つ国であるのに、大変残念だ。

それに加えて、さらに

私は、もう一つ、大きな原因があると考えている。英語や数学の授業より、まともな国語の授業は大変「残酷」だからだ、と思っているからだ。英語なら単語を覚えてその「並び方」を学習して、日本語での意味を知る。数学なら、事象を観察し、速さか重さか人数を考えて「和差積商」を考える。少し乱暴だが、これに尽きるだろう。

でも国語の授業はそうはいかない。私は日頃は中学生には国語の授業はしていない。英語と数学だけで精いっぱいだからだ。でも時々、必要だと思えば、国語もする。そしてするたびに「さまざま、ピン・キリが集まる普通の公立の学校ではまず無理だろうな」と実感している。塾だからこそ補習もできるし、個人の指導も可能だからだ。

そしてやってみて気が付くのだが、説明のために「例」や「事件」を取り上げても、その「例」や「事件」を生徒側が知っていないと話にならないし、説明しても理解できなければ、やはり無駄だ、ということだ。つまり世の中のことに興味がある生徒は、どんどん国語ができるようになるが、世の中に興味がない生徒はついて行きにくい。

また言葉=単語をあまり知らない人と、結構たくさん知っている人とでは発想力に差がありすぎて、授業のバランスが取れない。ここに学校での「まともな国語の授業」が行いにくい原因がある。しかしもっとウラにはひどい事情もある、と考えている。

まだ続く。