片仮名にすればいいのか

問題は「教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効」の部分だ。今までの「班活動による発表」とどう違うのか、そのへんが良くわからない。何でも片仮名にすれば良いというものではないだろう。

班というリミッターを外してしまえば、教室中がわいわいがやがやの喧騒になりそうで、私なんかは嫌だ。小学生や中学生高校生なりの意見を否定するつもりはないが、やはり未熟なものだろう。あまり参考にはなれなさそうで、なんでこんなものを、わざわざ大きく取り上げるのだろう。

人への好き嫌いが基準になるかもしれない

また「参考」にする基準が、発言者の能力ではなく、親近感とか好意あるいは贔屓で決まりそうで、それも嫌だ。嫌なやつが良いことを言っても、それを受け入れる度量を子供に期待するのは、少し無理がある。

ゆとり教育の時に「総合学習」というのがあった。これについては、文科省は完全に教師に「丸投げ」状態で、生徒の担任によって差がありすぎて「「時間の無駄だな~」と感じたものだ。当塾に通っていた生徒たちからの証言があるので、ホントである。

穿った見方で、同時に大いに偏見に満ちているかもしれないが、この「アクティブ・ラーニング」とやらは、もしかして教師に自信がないから、今度は生徒に「丸投げ」するつもりの企画なのだろうか?と疑いたくなる。なんだかまた変なことになりそうだ。オカミのやることは、いつもどこかズレているものだ。

黙って本でも読んだ方がいいのではないか

それより「皆で良書を黙って読む時間」を週に10時間、強制設置した方がよっぽど効果があるはずだ。古今東西の賢人の知恵は、私を含めたそこらへんの凡人の浅薄な意見より、数万段違いで優れている(ただし日常生活や、思想信条はあまり真似ない方が良いと思う、前にも言ったが、偉人とは同時に、奇人・変人が多いからだ)。もっともそれを消化吸収する生徒側にも、わからないところを説明する教師の方にも力量が必要だ。

私ならどんな授業を望むだろう。やはり見識に優れた「師匠」とも呼べる人にくっついて、その人のすべてを吸収するぞ、の形式の方が嬉しい。

もちろん同門同期の生徒もいた方が楽しいとは思う。しかし同門同期の人の意見や解釈は、参考にするが、やはり主は「その先生」で、わからないことがあれば、その先生に質問することができる環境の方が好ましい。そして、時間があれば、いやなんとか時間を作って、疑問を解説してくれそうな書物を読んで、また浮かんだ疑問をその先生と討論する、という形になればもっと嬉しい。

理想は、幕末の医者 緒方洪庵先生 主宰の「適塾」だ

「人のために生きて自分のために生きないということが重要である。楽をせず、名声や利益を考えず、自分を捨てて人を救うのがよい。人の命を救い、人々の苦しみを和らげる以外に考えることは何もない。」

残念ながら私は、そういう人には出会えなかった。不徳の致すところだ。そこで愚人の愚痴だと思って聞いて欲しい。

これも何度も言っているが、どんなに時代が進み、便利なディバイスが使えたとしても、テストの時に持ち込めるのは自分の頭と筆記用具だけだ。仮にタブレットを使った学習をやっていて、テストの時にも使えたとしても、蓄積データは利用できずにブロックされているはずだ。

なら「覚えているまでやりこんだ人」の勝ちに決まっている。
デオドラント化された時代の雰囲気に、呑まれてはいけない。