ベネディットは逮捕・投獄、しかし…

なんやかやで結局ベネディットは国境のはるか手前の町で逮捕されてしまい、そのままパリの拘置所に放り込まれた。しかし根っからの悪者である彼は慌てたりはしない。と言うより今までの経験で、危機に陥るとなぜか助けが来ることを知っていたからだ。自分は悪者だが、神に見守られている、と確信しているのである。

ここが我々日本人には理解できないところで、悪いことをしていたら、神様が助けてくれるはずがないと考えるのが普通だが、西洋人、特にキリスト教者は自分が神に対して恥じることをしていないなら、恐れることはない、と考える。だからマフィアのボスが日曜日に教会に平気でお祈りに行けるのだ。歴史的には「神の忠実なる信徒」であるピサロが、異教徒のインカ人たちをたくさん殺したが、別に「神」に恥じてはいなかった。「悪いこと」の基準が違うからだ。

この後、伯爵の忠実な手足であるベルツッチオは、元は義理の甥で、ひょんなことから偽貴族に成り上がり、不徳の致すところで、結局は人殺しに成り下がった、ビルフォールの捨て子であるベネディットに金を届けるために面会に来た(刑務所でもお金はいるんです)。

さてベネディットの確信は別に彼が信心が深いからではなく、すべて伯爵の意図から来たもので、その意味では伯爵が彼の「神」と言える。またベネディットは密かに伯爵が彼の父親でないかと推測している。

本当の父親を知るベネディット

偽貴族の捨て子が、伯爵を父親だと勘違いしているのを見て、忠実なモンテ・クリスト家の家令は、
「軽々しくあのお人の名を、お前みたいなケチな野郎が呼ぶんじゃねえ。その名をもつお人は神様に守られたお方なんだ」と叱っている。
完全に心酔し崇拝しているのがわかる。私は主人公より脇役が気になるんです。将棋でも歩が大切なように、脇役が主人公をひきたてるのだから。

「じゃあ教えてくれよ、俺の親父は誰なんだ?」
「そんなに知りたいか?」
「ああ、死んでもいいから知りたい」
「なら教えてやろう。お前の親父はな…」
そしてベルツッチオは彼の兄の仇であるビルフォールの名を告げる。しかし母の名は告げなかった。それはビルフォールの破滅の運命が始まった瞬間でもあった。ベルツッチオは見事に兄と義姉の仇を討ったのである。母の名を告げなかったのは、伯爵にとっては、そこまでする必要はない、と考えたのだろう。事実、彼の復讐の対象とは違い、ある意味とばっちりでもあり、現実は娘に逃げられて、もう十分に打撃を受けているのだから。ただし原作にはこのシーンはない。あくまで私の勝手な想像と推測だ。

死刑にならないのならば、死ぬまで牢獄に繋がれるだけの判決しか下りそうにないベネディットを利用して、伯爵=エドモン・ダンテスは父親 ビルフォールの悪の歴史をベネディットに教え、公開の場である法廷で陳述させ、同情を勝ち取り、ベネディットは情状酌量に持っていかせる。同時に親のビルフォールの社会的生命は完全に抹殺するという筋書きだ。よく「返す刀で」とか「肉を切らせて骨を断つ」とかいうが、悪辣なこと、この上ない。

そしてその通りになり、彼は裁判長に「今の被告人(=ベネディットのこと)の陳述は真実か」と問われて
「真実です。私は今、復讐の神の手の中にあります」
と告白し、法廷を去ることになる。

しかし家庭に帰ると、まだ悲劇が待っていたのだ。それは後妻エロイーズと息子エドワールの死だった。

まだ続く。