1人か2人が罹患しただけで
最近、オミクロン株に変異して感染力がアップしたために、毎日1人、2人と発症する中学生が、近所の学校でようやっと出てきている。それでもほとんどが重症化しないで、単にのどが痛いとか、鼻水が出るぐらいだ。当塾でも2人ほど出たが、それ以来、私も含めて、誰も罹患していない。どうやらウイルスに避けられているようだ。
普通の風邪程度の症状でも、一応、決まりは決まりなので、「PCR検査で陽性判定が出たら7日休み」、「濃厚接触者になったら10日間謹慎」には、馬鹿馬鹿しいが従っている。おかげで重複授業が増えているが、まあ仕方がない。私は個人だから小回りも効くので、大被害にはならない。
恐らく時間が解決する。だがそれまで学校は大変だ
今のままの「決まり」なら、1人のコロナ患者が出れば、重症・軽症にもかかわらずそれで即時に学級閉鎖、3クラス以上が学級閉鎖になれば学年閉鎖、2つ以上の学年が閉鎖になれば学校閉鎖なのだから。これが原因で、学校という共同体は機能不全に陥っている。そろそろ何とかしないと、と考えている関係者が増えているのではないかと、推測してはいる。
新型肺炎コロナウイルスの対策に関する私の考えは述べない。塾生には2020年の6月ぐらいから「こう思う」と述べているが、恐らく公には、特にweb上では、ずっと述べないだろう。理由は、コロナに関してはもはや「神学論争」レベルになっていて、泥沼の中に引き込まれるからだ。しかし恐らく時間が解決する、と考えている。特に日本人には有効だろう。
モンテ・クリスト伯=アレクサンドル・デュマも
「ベルツッチオ、よく覚えておけ。『およそすべての患いに対処する方法は2つだ。曰く時。曰く沈黙』と言っている。
ただ現状は対応がヒステリック過ぎることと、政府その他の関係者が「進むも地獄、引くも地獄」のジレンマに陥っていて、その影響をもろに被っている生徒たちが可哀想すぎる、とだけ述べておく。それにしても政治の結果とは怖いなと感じている。
何が「良い」のか
さてお題は「コロナで良かった1つのこと」だった。これは皮肉かもしれないし、真面目でもある。
真面目に(?)学級閉鎖に付き合って、塾生が2人、家に籠って、学年末試験も近い事なので、毎日かなりの時間を勉強、特に復習に当てた。それも「昨日できた問題が今日は解けるか、昨日できずに答えを読んで理解したつもりの問題は今日はできるか」の姿勢を形成し、そしてそれを継続した。
試験結果は素晴らしく良かったのである。「めちゃくちゃスラスラ解けて、時間までいっぱい余った」とも言っていた。今までは試験の前まで授業がなんとなくあって、自己学習時間が取れなかった。先生も「授業をしなければ」の強迫観念があったのか、授業にこだわっていたのだが、今回は試験1週間前に学級閉鎖になってしまい、幸い試験範囲は終了していたため、たくさん問題プリントを渡しただけだったのだが、それが上手く行ったのである。
自習時間を確保できた
実は私は塾開業以来、ずっと「試験1週間前には授業を停止して、各科目ごとに自習時間を確保すればそれだけで成績が上がる。特に学校では、教室ごとに先生を控えさせて、この教室は数学専門、あの教室は英語専門にして、質問時間と強制的な自習時間を作れ」と提唱していた。それが今回、図らずしも実現できたことになる。
オスカー・ワイルドの言葉に、似たようなものがある。彼は劇作家だけあって、名言が多い。また、かなりの高学歴であのオックスフォード大学も出ている。
「不正よりもなお困ったものがひとつだけある。それは、手に剣を持たぬ正義だ」とか
「経験とは、誰もが自分の過ちにつける名前のことだ」
などなど、名言サイトに絶対入っているものが多い。
そんな「名言」の中には入っていないが、こういうのがある。
Education is an admirable thing, but it is well to remember from time to time that nothing that is worth knowing can be taught.
「教育は称賛に値するものだが、知るほどの価値があることは教えられないということを、時に思い出すのが良い」
「教えられない」の解釈がポイントかも
この英文は高校生用の英文解釈集から得たものだ。含蓄が深いと感じるのは私だけだろうか?
色々な意味に解釈できるだろうが、特に「教えられない」の部分は、裏返せば、「自分で考えるしかない」とも取れるし、「自分で覚えるしかない」とも取れる。そうなると必然的に「時間がかかる」だろう。
コロナ禍⇒学級閉鎖の流れで得た「良いことの1つ」は、「自分で身に着けるには時間がかかる。でも案外、やればできるじゃないか」を、うちの中学生が実感できたことかもしれないな、と考えている。これからもテスト前には自習時間を学校が作ってくれればなあ、と希求もしている。