2番目を考えてみる

先ほどのサイトには、
1番目のレンガ職人:「レンガ積みに決まっているだろ」→特に目的なし
2番目のレンガ職人:「この仕事のおかげで俺は家族を養っていける」→生活費を稼ぐのが目的
3番目のレンガ職人:「歴史に残る偉大な大聖堂を造っている」→後世に残る事業に加わり、世の中に貢献することが目的

2番目の仕事観を持つ子供の場合はどうしたらいいか?

夢のない奴だ、とやはり説教してはいけない。むしろ一番多いタイプだろうと思う。釣りが好きだからと言って、全員が漁師になるわけではないのと同じだ。

一番問題のない子供ではないか、と実は私は考えている。公私を区別していてむしろ良い感じがする。趣味や楽しみは別に取っておいた方が無難だ。変に漫画を描くことが好きで、漫画家にでもなってしまったら、胃痛や締切に苦しめられる生活が待っているのである。

3番を選ぶ場合も注意しなければならない

確かに世の中で成功している人は、お金を稼ぐために仕事をしている、というよりは、仕事は趣味あるいはゲームみたいなもので、さらに突き付めて考えると、「自己表現の手段」でもある。自分が考えた商品やサービスで、感謝されてお金がもらえるというのは、至福の喜びだ。辞めて引退などと考えることはありえない、逆に仕事を辞めてしまったら、やることがなくて退屈だろう。

しかし仕事中毒になってしまって、家庭を顧みなかったり、体を壊すまで自分の不調に気が付かない可能性も高くなる。これは私も経験があるのだが、30代の時、ノリにのって仕事をしていた時に、なんだかくらくらすることが続き、自分が疲れているのに、疲れている自覚がないことに気がついた。そこで、医者に行ったら「とにかく帰ってこの薬を飲んで、寝なさい」と言われた。

で、指示通りにすると、どうやら睡眠導入剤だったようで、15時間ほど寝てしまった。起きたら、肩も腰も張っていたので、慌てて、マッサージに行って「えらくお疲れですね~全身凝りきっていますよ~」と言れ、「あ! オレ疲れていたんだ」と…。間抜けな話である。

古来、過ぎたるは及ばざるがごとし、という。特に人に使われている場合は「ほどほど」の方が良いし、自営業ならなおのこと。体が資本だ。頑張る時と、流して良い時を見極めることだ。

特に中学生は、アルバイトもしたことがないだろうから、「働く」という経験値はゼロだ。親・保護者が補って、あらかじめ教えておいた方が、ダークな部分も含めた良い論文になるのではないだろうか。

中学生1人では荷が重い課題なので、日頃から、親・保護者、父親と母親が、よく話し合っておく必要がある。

4番目の選択肢があってもいい

で、ここは私の勝手な意見なのだが、そもそもなぜ「働く」ことが前提なのだろうか、疑問に思うのである。単にひねくれ者だからこんなことを考えるのだが、4番目の人、つまり「働きたくないし、働かないで生きていくことを考える」タイプがいても構わないと思うのだ。

なんですかそれは、そんなの生きていけるのかな~と思うかもしれないが、小説の中になら存在する。
高橋克彦氏の「蒼夜叉」と「完四郎広目手控」という2冊に出て来る主人公は、時代こそ違え、どちらも居候として人生を送っている。つまり生産性という面からすると、まあゼロに近い生き方をしている。

しかし運命が放っておかないので、さまざまな事件に巻き込まれ、それを解決する「探偵役」を小説内で果たしている。その時役立つのが、彼がそれまでに読んできた書物の中から得た「役に立つか立たないか不明」の知識だ。「蒼夜叉」の続刊である「降魔王」では、居候ながら高野山のある寺で、住職助手もやっている、変わり種だ。もちろんお経もちゃんと読める。これだってある意味、中々のスペックと言えよう。

もちろん自分の周りに「ただ面倒だけ見てくれ」という人がいては迷惑なのはわかるが、彼は彼で「居候」の在り方に哲学があり、なるべく迷惑をかけないようにして生きていて、好感が持てる。また周囲もなんのかんの言って彼の面倒を見ている。肩ひじ張ることの多い現世だから、「こういう人も(小説の中だけど)いるよ」と子供に教えたくなるような生き方だ。

これこそが「多様性を認める」ことになる、と考えるのはおかしいのだろうか?