妖怪を題材にする小説が好き

気に入っている小説家のうちの一人が京極夏彦氏だ。知っている人は知っているが、氏は妖怪好事家で、作品中で妖怪が出ないものはない、と言っても良い。そして多作家であり、本屋に行けばずらりと京極夏彦の本が並んでいて、どれから読んでいいかわからないぐらいだ。

その中の「巷説(こうせつ)百物語」シリーズは、一番の私のお気に入りだ。時代は江戸の終わりから明治の最初にかけて、主人公は「小股くぐりの又市・別名 八咫烏」という小悪党だ。彼は妖怪を操って、もめ事を解決する役割を物語中で果たす「妖術師」だ。もっとも妖怪を使うと言っても、目に見える妖怪が出てくるわけではなく、人が勝手に想像の中でそんな妖怪がいるんじゃないか?と思い込む手段を人為的に構築して、脳内に「出現」させることで、人を納得させるのである。

又市自身は江戸の終わりのちょっと前には死んでいるのだが(ただし小説中に、死の場面の描写はない)、明治10年ぐらいまで生きた仲間の山岡百介という戯作者の心の中に生き続け、山岡が老衰で息を引き取る時に、あの世から迎えに来たかもしれない、という終わり方で、同シリーズは一旦終了となる。しかし11年たってまた、続きが出た。

もう一つのシリーズは京極堂シリーズで、逆に、人にとりついた憑き物=妖怪を落とすことを生業としている古書肆=簡単に言えば古本屋さんの話だ。戦後すぐ昭和20年ぐらいからの時代背景になっている。こちらは京極夏彦氏の出世作で、中心的なシリーズでもあり、スピンオフも豊富にある。もちろん断然に面白いが、途中、中々難しい部分があるので、初めての人は「巷説百物語」シリーズから「京極ワールド」に入るほうがいいかもしれない。

似てはいるが非なるもの

で、なんでこんな話をし出したかと言うと、学校の先生と塾講師の違いは「妖怪」を取り扱えるかどうかだ、と考えているからだ。もちろん妖怪と言っても、ゲゲゲの鬼太郎とか、猫娘とか、一反木綿ではなく、「勉強したくない」とか「このままではまずいけど、やっぱり怠けていたい」とか「友達も同じだから」とか「間違ったら恥ずかしい」とか「自分に続くわけがない」など、流行りの言葉で言えば「自己肯定感に乏しい」という、勉強するには有害で邪な「気持ち」「心の澱」を指す。漫画の表現でよくある、黒い霧状でゆらゆらと人体に纏わりついているような「アヤカシ」と言ってもよい。

それらは昨日今日憑りついたのではなく、かなり前から彼や彼女にくっついていて、知らないうちに成長し、気が付けば、人によると一体化しかかっている場合もある。そうなるともう大変だ。まずはそれをひき剥がしてからでないと学習指導が始まらない。あるいは始めてから「何か変だぞ」という時に、彼や彼女の後ろなどにくっついているのを見つけたりするのである。

しかしいきなり引き剥がそうとすると、大抵は抵抗される。「汚い」「邪魔」「なくても良い物」であっても、もはや自分の一部だからだ。そこで「儀式」「舞台装置」「本人の覚悟」などが必要になってくる。とにかく手順を踏むのに手間がかかるのである。

ちょっと話が逸れるが、よく成績順・習熟度別にクラスを分けていることが最近多くなったが、ものはついでだから、性別も分けて欲しいと考えている。思春期の少年少女たちは、どうしても異性を意識して「カッコ悪いことはしたくない、見せたくない」と思うから、そこを汲んで欲しいのだ。

話は戻る。

で、こちらは先ほどのブログで書いたような、「舞台装置」「儀式」を整えて、本人の「意識」と「覚悟」を見極めて、憑りついている邪なものを引き剥がしにかかる。なるべく1回で終わらせたいが、2回3回かかることもある。

これは学校の先生には、あまりできないことだ。ただし別にできなくても良い。そもそも学校の先生とは、村の和尚さんみたいなもので、普通の相談事には乗れるが、深く憑りついているものを引き剥がすことはなかなかできない。そもそも檀家=生徒たちが、仏の教えに忠実でなければ仏徳の恩恵にはあずかれない。もちろん緊急事態にはあまり役に立たない。でも多くの村人には尊敬されている存在だ。

対して塾講師とは、怪しげな民間療法を使い、時には変な呪文を唱えて、勉強や学習指導の邪魔になる「憑き物」を落とす、格好良く言えば陰陽師、民俗的表現なら六部、少し下賤な言い方なら拝み屋みたいなもので、村に住んでいても村はずれ、あるいは山の中に住んでいたり、あるいはただの通りすがりみたいな存在かな、と私は勝手に考えている。

という変な理由もあって、私は京極夏彦氏の作品が好きなのかもしれない。