難問題を解くのは learn ではなく study の初歩レベル

そもそも本当の困難には、模範解答がないのが普通だ。あれかもしれない、これかもしれないで、その時点で一番ましかな?と思える手段を取って、後は出方を見るしか方法がない。なのに、時間が経てば、あっけなくさっきの「正解」は無効だ、になることも多い。

注意するべきは、受験勉強を「無駄だ」とか「意味がない」とか低く評価している人たちの意見だ。心地よいから、子供や保護者は賛成したくなる。テレビなどに出ている彼らはほとんどすべてが「成功者」である。学校の勉強もたいていは良くできていて、それ以上のこともできている人が大半だ。

彼らは、未来に有力な競争者が出ないように、つまり自分たちの地位が脅かされないように、情報を偏向させている可能性を疑ってかかった方が良い。あるいは learn を意識せず、気が付いたら study をやっていた人たちだった可能性もある。

だから子供には、受験勉強は普通は「正解」が存在する、正解に達するまで練習しよう、人生はまず最初に、その種の問題が解けることを要求しているよ、と励ますことが大切、となる。

しかし誰でもできるわけではないのが問題

では皆がそれがやれるか、というと、いつか書いたけど「天の時、地の利、人の和」がないとうまく行くものではない。

「天の時」とは知識量が一定に達していることは当然として、ある程度、時間が取れる時期でなければならない。そこに達する前に満足したり、あきらめている人には踏み込めない領域だ。学校の宿題などに追われていて、それでもう一杯だ、という人には無理な作戦で、ある意味自滅行為だ。できれば夏休みとか、春・冬休みの前ぐらいに始めるべきもので、行事の多い2学期や、クラス変えをしてすぐの1学期のど真ん中では無理があるだろう。

「地の利」は家から学校があまり離れていないとか、通っている予備校や塾などがなんとか通える範囲にあるとか、遅くなる時は、特に女子生徒なら、家庭からのすばやい送り迎えが期待できることだ。

人間が古いのか、20代の大人の女性ならともかく、10代の少年少女があまり遅くに電車に乗っているのは止めてくれ~と思う。それならダラダラしていても良いから、家の中にいて欲しい。

一番の問題は「人の和」、家族との関係だ。
特に親や保護者が「仕方ないね」で済ませてしまうような、あきらめの早い人たちだと、生徒当人も恐らくその傾向が強いから、難問題を見たら逃げてしまうだろう。

逆に「お前には無理だ」とダメ出しをしょっちゅうする親や保護者でもいけないし、子供に任せっぱなし、という「自由主義」に名を借りた「放任主義」でも恐らくだめだろう。

家庭では確認を怠らない

勉強は取り敢えず、塾や家庭教師に任せてみて、家で確認するとどうしてもできない問題がある、その場合は学習担当者に「~ができないんです。補習料を払いますから、できるまでお願いします」と連絡をして、後日できたかどうかを確認し、同時に親・保護者は日常の振る舞いに注意をする。そうすれば非認知能力の中で、自制力と、継続力は向上し、脳に欠陥がない人なら、緩やかでも点数は上がるのではないか。

あるいは「ウチの子は何べん言ってもだめで…」とあきらめるのも、あまり良くない。とにかく「一を聞いて十を知る」人は稀で、「十を聞いても三ぐらいしかわからない」人が大多数を忘れてはいけない。

何べん言っても良いのだ。

そのうち好転するかもしれないし、仮に好転しなくても、後で本人が自分の人生に文句を言った時に「私たちの言うことを聞かなかったアナタが悪い」と切り返すことができるからだ。つまり、注意をするのは本人のためではなく、親や保護者の将来の免責事項、と心得ておけば、気も楽になる。アホな子でも犯罪をやらかさなければそれでいいから、どんどん注意するべきだ。

ある程度の成績になったら、積極的に難問題を解かせ、それでだめなら、元々入試もだめ、と割り切る方が精神衛生に良い。