どんな人にも現実は訪れてくる

最近の教育の風潮に「自分の夢を持ち、夢を大切にしよう」とか、「あきらめないことがいいことだ」というのが多い。夢なんか持つな、現実だけを考えろ、という世知辛い風潮よりはずっといいからあまり文句は言いたくない。しかしあまり強調しすぎるのはいかがなものか?と思う。

私はご存じの通り、市井の、中学生相手の、有名でない学習塾を運営・経営している、これまた普通の人間だ。通ってくる学生もごく平凡な人たち、子供たちばかりだ。それでも最後には「進路決定」という嫌なものが、待っている。普通は12月の前半の終わりか半ばの始めに行われ、早い人なら面談中の1時間、あるいは最初の10分間で決まり終了し、遅い人でもまあ1週間ぐらいの間に終わる。

そしていくら面談で、Aという希望・志望校をどうしても受けたいと粘っても、成績がそれに及ばなければ、どうにもならない。「だめかもしれないけど受けてみる?」と言われるのはまだマシな方で、「BかCなら行ける(君にはAは最初から無理だよ)」とかで、話題にならないことも多い。3年の面談そのものはもう最終局面どころか、ただの儀式みたいなものだ、ということを知っている生徒は半分ぐらいだ。たいていは3年になって夏休みぐらいから頑張ればいい、とか甘く考えている。

進路決定指導の時間は、「夢の壊れる時」でもある

正確には「夢が完全に壊れる」だろう。では夢が壊れつつあるのは、いつだろう?それは日々の学校生活の中でだ。

数学の計算問題でつまづいたり、英語の不定詞の分類がわからなかったり、理科の実験の意味が飲み込めなかったり、社会で「風神雷神」の絵を描いた人が誰か思い出せなかったり、国語の文章の要約が時間以内にできなかったりしていく時だ。あるいは忘れ物クセが1年たっても全然治せなかったりも、提出物ができていないから、マイナス点になる。

高等教育を国民の多くの子弟が受ける、ということは悪いことではない。高校の勉強内容、英語や数学、社会、理科なども、これまた多少の変遷はあったが「芯」のところに、特に変化はない。

中学の1次関数や2乗比例の関数は、高校で式と図形、三角関数や指数・対数関数、微分積分などの基礎のために欠かすことのできないもので、中学レベルの直線程度の関数が理解できない人に、変曲点を2つ以上持つ曲線の関数=高校数学を理解することは無理だ。

英語は2年最後の比較構文、3年最後の関係代名詞を無理なく理解・勉強できるレベルに持っていけた者だけが、高校での否定絡みの比較構文や、関係副詞、複合関係詞を理解できて、上級の大学に進学できる、というのは崩せない法則だ。

多くの生徒たちにとって、「中学は高校に行くための教育機関」であることは、揺るぎのない事実だ。以上は「絶対的」と言ってもよいことで、大声で主張するようなことでもないし、そこをはずしてしまっては、中学高校の存在意義がなくなってしまう。

まだ少し続く。