架空の話だからこそ、現実を知ってベースにする

中学生に真面目に教えても効果があるかわからないことだが「作り物の話だからこそ、現実にあったことをきちんと調べてベースにしなければ、人にはうけない」ということを知ってもらいたかったことも大きい。

その後、世界史で勉強する諸々の「革命」についての「講義」みたいになった。
フランス革命は大きく美化されているが、要するに庶民の暴動と、不平下級貴族の虐殺であり、フランス全土に大きな傷を残したこと、ロシア革命もほぼ同じ、1989年のベルリンの壁崩壊は、やはり圧政に苦しみ、食うことにも困った東ベルリン市民の自力救済の結果起きたものだったことなど、それまで政治に参加できなかった人が声を上げ、行動に出たことがきっかけだったなど、教科書でいうような「きれいな事」では全くなかったことを伝えた。

日本でも同じで、新憲法発布の1946年まで、日本国民にはいわゆる基本的人権はなかった。しかし沖縄では参政権のなかった女性や、未成年の学生が志願し、戦死している。大きくは「琉球民が、日本国民になったことの証明を見せた」としか考えられない。

だから最大の国難に、全く役に立たなかった華族制度の廃止や財閥解体、ひいては仲間内で足を引っ張りあい「太平洋戦争は日本とアメリカの戦いではなく、日本陸軍と日本海軍の戦いで、その合間にアメリカ軍と戦っていた」と称されるような帝国陸海軍の解体などには、誰も大きく異議を唱えなかった。

あれだけ頑張ったのだから、基本的人権を持てて当然だ、の空気や集合的な無意識もあったと思われる。その意味では、ポツダム宣言受諾も、無能な指導層=貴族に、庶民がNOを突き付けた形と同じだ。

もし天皇陛下が「聖断」を下さなければ、完全にアウトだった、と庶民は思っただろう。確かに戦意旺盛な人たちもいただろうが、戦いに疲れていた人の方が大勢だったろうし、息子や男兄弟、夫をなくした人たちだったら、もう早く終わって欲しいと思うのが自然だ。でなければ疲れ果てて、自死を選んだかもしれない。そうなっては戦死した人たちは、ホントの無駄死になってしまう。

積極的な賛成はできないけれど、日本国憲法制定についての「革命説」は、ある意味当たっているのかもなあ、つまり天皇陛下は犠牲になる国民の側に立って「体制を変える革命」を受け入れたことになるなあ、とも教えておいた。

今の日本は「国民国家」とは言えない

でも今の、現在の日本国民は私も含めて、自覚のある国民と言えるのだろうか?
投票箱があっても投票にいかない。行かなくても罰則も罰金もない。オーストラリアでは罰金があるそうだ。完全に自分たちの権利の上に眠っていて、日々の生活に満足しているようでは、変革など期待できない。

そのくせ、メディアに扇動されれば、デモに行って大声をあげて、それで帰ってくる。国会前で声を張り上げても、防音が効いているから意味はないし、いくらテレビに映っても、そのテレビのチャンネルを切り替えられたら、映らない。

有識者や富裕層もあまり日本のことを考えてはいなさそうだ。ホリエモンこと堀江氏は「徴兵制にはならない」と言ったが、戦争になったら海外に逃げると明言した。彼のような富裕な人で、海外でも生活の糧を得れる人なら、大丈夫だろう。女子生徒と話していた時点では「上級国民」という言葉はなかったが、要するに彼らは「貴族」なのである。普通の庶民が海外で難民になったら、おそらく1週間ぐらいで食うに困って、露頭で野垂れ死にだ。

今の日本国民はこのような人がほとんどだ。ある意味中世ヨーロッパの「国は王のもの、民は税金を収めるだけ」みたいなものだ。

この矛盾を見ぬき、本当の「国民国家」を樹立すると決意し、能力を持つ早熟な若者たちが現れ、血が流れない革命を本気で目指し、実行したとする。そうなるなら、たぶんほとんどの国民が「OKで~す」になり、政権転覆、国権奪取は実現する。権力は奪取した手段ではなく、後の行使の形によって正当化される、も教えておいた。

成功するならこのパターンだろう、まさにファンタジー、幻想の世界と同じで、自分たちは被害を受けない、それだったらウケる、支持されるという結論になるだろうと。その女子中学生はなるほど~と納得したようだが、まあ問題は革命の準備とその後にあるよ、というと「?」という顔をしていた。

後もう1回続く。