学力を上げるためには、精神的な成長の絡み合いがカギ

これが難しい。精神的成長は形がない。博物館や美術館に行っても「精神的成長」の彫刻とか絵画が置いてあるわけでもない。具体的にどうやればいいのかわかりにくい。よって参考にするのは、やはり日々の言動だ。そこで今まで見てきた生徒たちの中で「精神的に上の人と下の人」の行動の差を紹介する。

ポイントは「効率良いか悪いか=準備ができているか」と「動作が素早いか、そうでないか」だ。

上の人…必要なプリントやテキストが「さっと」取り出せる
⇔下の人…プリントやテキストがカバンのどこに入っているかわかっていない、そもそも忘れてきている。

上の人…先生の発言中で恐らく大事と思われるところを「さっと」察し、メモまで取る。
⇔下の人…大事と思われるところが把握できないか、そもそも集中して聴いていない。

上の人…明日の予定で意外な持参品があれば、すぐにメモを取る。
⇔下の人…先生の上の発言を聞いていないので、特別な持参品を忘れてくる。

テストの時は「さっと」知識を引き出して、「さっと」書けないと点数はあがらない。全部「さっと」である。日頃のアイテム管理でもたもたしている人に、「さっと」できると考える方が、無理がある。

世の中の、親・保護者の方は、そういう日常の生活活動を疎かにして、勉強だけできるようになれ、とおっしゃる人がここ20年ぐらいで増えた。でも30年前~40年前はそうでもなかった。もっとも最近、ようやっと「非認知能力」ということに日の目が当たってきたのは喜ばしい。ぜひ皆さんの理解が深まるともっと良いだろう。

昔の保護者は乱暴だったが

私が駆け出しのころ、当然私より年上の人たちが中学生の保護者だった。まあ怖いこと怖いこと。ある日、髪を濡らして現れた生徒がいたので、どうしたのと訊くと、部活で疲れて寝ていたら水をかけられて起こされたとか、頭にこぶができたと女子生徒が言うので理由を訊くと、今日宿題を忘れて学校で怒られた、とお母さんに言ったら掃除機のパイプの部分で叩かれたとか。あるいは部屋を片付けないからと言って、勉強道具以外は、すべてを捨てられてしまった生徒もいた。

こんなことはそれこそ日常茶飯事だった。一見乱暴に見えるが、芯は違う。つまり不器用だが、真の愛情にあふれていたのだ。そういう人たちに、塾の講師として私は育てられたのだろうと感じる。

別に過ぎた日を「ああ、あのころは良かった」と繰り言を述べているのではない。環境が変わることは受けいれている。自分が子供だった昭和30年代~40年代を懐かしむ気持ちはあるが、戻りたいとは思わない。今から考えれば不潔でごみごみしていたし、空気も悪かった。漫画もスポ根か、いわゆる少女漫画ステレオタイプだらけだったし、ビデオもないからタイムシフトもできない。新聞も他にメディアがないから「オレ様」でエラソーだった。まだ若かった昭和の終わり、平成の最初にも、別に戻りたいとは思わない。仮に戻っても、その時にできたこと以上のことができるとは思わないからだ。今でも精一杯のように、あの当時はあれで精いっぱいだったのだ。

長くなるので、いったんここで終わる。