日頃あまり意識しないが

少し勉強とは離れたことを考えている。5年ほど前に話題になった「保育園落ちた日本死ね」だ。あれから待機児童問題は解決したのか、少し気になって調べてみたのだが…減少はしているようだが、まだまだ解決はしていないし、表面には出ないが、ミスマッチもあるのは確かだろう。

あのブログは、ガセネタだ、誰かが勝手に書いたのだ、いやあれは本物だ、と賛成も批判も多かったが、今ではあれは本当のことで、書いた人が、本当に保育園に子供を入れることができなかった怒れるヤングママさんだった、ということが明らかになっている。反響が大きくて本人が驚いていたぐらいだった。

あの時国会でも取り上げられたから、記憶に残っているのだが、今でも時々話題になっているようだ。もちろん仕事と子供を抱えているのに、保育園に落ちた人は大変気の毒で、もし私が引退していて、近くにいるのなら、1日ぐらいは子供を預かって「助太刀」したくなった。次の保育園が決まるまで、近所の人や、親戚筋、行政などの協力が必要になるだろう。

だが、それ以外のことが、中々面白い現象だったなあ、と個人的には思っている。そこで、もし仮に、あのブログが本当に本当は、まさに狂言で、虚構であったとしても、考えるきっかけにはなった。そういう前提で意見を述べてみたい。

本題の「言葉は力だ」から連想すること

暴力も力だからモノを動かすことがある。まずそこを述べる。その後、この「事件」について関連した感想も述べておきたい。

まず第1に、あの投稿がもう少しお上品な表現だったら、あそこまで大きな反響を受けることができたか?という視点だ。

「保育園に落ちてしまいました~どうしよう(泣)」ぐらいだったらどうだったろうか?たぶん反響は小さかったはずだ。書いた人もインタビューをした記者さんに「確かに感情的になって書いてしまった」と認めている。全文読んでみればわかるが、これからの生活不安を抱えたまさに「魂の叫び」だった。ある意味名文と言える。

しかしあの「日本死ね」は中々強烈な、まさにインパクトのある言葉だった。勝手な推測だが、自分が所属していて、信じていたい、一番大きなコミュニティーに失望したからこそ、ああいう表現になったのだろう。息子や夫などの身内に、失望や絶望した母や妻や姉が「あんたなんか死んでしまえ!」というのに似ているような気がする。

それを言葉が汚いとか、死ねなんていうものじゃない、とたしなめるのは、人間に感情をなくせ、と言うのと等しいので、私は賛同できない。あれは汚い言葉だからこそ、強かったのだ。まさに「(言葉の)暴力が人を動かした」と私は受け取りたいのだ。

暴力では事は解決しない が…

このブログでも時折主張しているが、暴力では事は解決しないのは確かだがろうが、暴力が事を動かすことはありうる。「暴れる力」と書いて「暴力」で、力だからモノに作用するのだ。そして暴力は理性的でなく、たいていは感情が生んだものだ。

よっぽど困惑し、錯乱していたからこそ動いたのである。古今集仮名序に曰く「(歌や言葉は)天地をも動かし、鬼神の心を和らげもする」、そこを外した考えは意味がない。もっとも宿野飯盛が「歌よみは 下手こそよけれ 天地の 動き出してたまるものかは」と読んだ狂歌もわすれてはならない。

まだ続く。