「美談」とは何だろう

細かいことまでは覚えていないが、甲子園予選前に、M高校野球部のある選手が伝令もできないぐらい脚を負傷した。だが彼はチームの先頭に立ってすごく頑張っていたので、その選手を登録選手としてベンチ入りさせたことが「美談」として、前年か前々年に、載っていた。

私は記事を読んで「これは美談かな~?」とかなり疑問に思った。疑問を列挙すると、
①伝令にも使えないようでは、代打も無理だろう。戦力不足が明らかなのを放置して試合に臨むのか。
②他にも頑張っている選手はいるだろう。ベンチ入りのボーダーライン上にいる選手がもし3年生なら、その最後の機会を奪うことになるのは、かえって残酷ではないか。
③①のことを、まともな対戦チームなら情報を得ているはずだ。そこを突く隙を残していいのか。
④競った戦いでは、最後は運で決まる。そのような「運の悪い人」をベンチに選手=戦闘員として入れておいていいのか。

例えはきついが

銃弾・爆弾、ミサイルが飛び交う本当の戦場では、軽傷者と重傷者では、軽傷者の治療が優先される。軽傷者なら応急処置後、後方から銃を打って援護ぐらいはできるが、重傷者では戦いに参加できないからだ。海軍では、航空母艦=空母に被害を受けた時に、負傷者がもし甲板要員とパイロットなら、特殊技術を持ち戦闘能力の高い=代えの効かないパイロットの治療を優先するのが、基本中の基本だ。

「戦う集団」の自覚を持つチームの指揮官なら、実際できるかどうかはおいて、以上のような気概、心の準備を常に持たなければならない。そして同時に「他の選手、特に3年生選手にとっては、最後のチャンスだ」と決断しなければならないと思ったからだ。

本人も覚悟が必要だ

またチームやチームメイトのことを真に考える部員なら、気持ちだけ受け取り、ベンチ入りしたいのなら、第2マネージャーなどとして登録をするべきだった。

それが、このブログ内で私が主張している「精神的な成長」だ。特に、非認知能力についてのビッグファイブ、項目 (4)「協調して、仲間と協力すること」 に合致する。他者と協力するとは、自己を抑制することだから。

辞退する選手君は、もちろん悔しいだろうし、不甲斐ない、とか、なんて俺は運が悪いんだ、と自分や神様を責めるだろう。しかし、その経験は後に成長になり、まだ続く人生において、確実に大きな糧になる。これこそ「美談」ではないか?

一番肝心なところをはずすようでは、と失望したことを覚えているし、これを書いた記者さんのレベルもわかったような気がした。 朝日新聞 あるいは 神戸新聞、頑張りたまえよ。

無理な注文なのはわかっているけど

極めて非情な考えで、強豪校ならまだしも、普通のチームや普通の高校生にできるわけがないのはわかっている。その監督は学校の教師でもあったので、選手=生徒=子供が可愛い、可哀そうという心情が最後に勝ってしまったのであろう。基本的に子供が好きだから教師になるので、責めることはできない。

しかし部活動指導で日頃は「勝利至上主義」なのに、こういう肝心な時に姿勢が弱くなる例が部活指導者=教師の場合に多く見られるのは、残念でもあり、矛盾しているとも感じる。教育重視サイドならそっち、勝利至上サイドならそっち、と最後まで貫いて欲しいところだ。

これが原因かどうかはわからないが、記事が載った年は結局1回戦負けで、その監督がまだ野球部の指導を続けていることがわかったからだ。こういう人物が監督では、また選択を誤りかねないし、「練習のための練習」になるだろう。そんな部活なら、しない方がよっぽどマシである。

実はY君が小学校の時に少年野球に入っていたから、「高校球児になろかな」と思う可能性を少なくしておきたかったこともあった。

まだ続く。