本人に自覚がないか、字が読みにくことも「個性」と勘違いしている場合がある

精神的成長のもう一つが、ノートの取り方以前に、やはり「字体の改善」だろう。数多い「字体はともかく読みにくい字の生徒」に対しては、どう説得すれば、多少はマシな字体になってくれるのか。

小学校の間はまだいいが、中学も2年になると、例の連立方程式の計算だとか図形の証明だとかで、かなりの字数を書かなければならなくなる。その時に、字体がバラバラ、行がガタガタ、あるいは妙に字が大き過ぎたりすると、計算や証明を書くスペースに入りきらず、得点できないケースも出てくる。

その時になって「もっと字体を改善しなさい」と指導しても、かなり遅い。
本来なら小学校4年ぐらいから、マス目 10mm四方~8mm四方ぐらいのノートに字を書くように訓練していかなければいけない。しかし指導力のない小学校教諭にばかり当たったり、前にも言ったが、本人に柔軟性のない頑固なタイプだったり、あるいはそういうことに関心の薄い、あるいは時間的心理的余裕のあい親・保護者だったりすると、そう行かなくなる。

特に今の小学校は「新学力観」で「学童の自主性を重んじ」とあるので、悪い方向に行くと「放置主義」になる。その場合は、残念なことだが、学校や教師をアテにしないことだ。そして親・保護者は関心を持つように、あるいは時間的心理的な余裕を持てるように環境を改善して、取り組まなければいけない。

40年~30年前の親・保護者さんたちは怖かった

私がまだ駆け出しの塾講師だったころ、塾生の親・保護者は当然私より年上で、昭和10年代から20年代の生まれの人が多かった。そして大卒の人も少なかった。しかしみじめな敗戦の事実と、当時の無責任な政策を身を持って知っている塾生の親・保護者たち自身の親や、親せきから「ホントに国はアテにならない、責任は取らないで肝心な時に逃げる」と叩き込まれていたこともあって、「先生(有難いことに、なんの資格もまだ特に目立った実績もない私をそう呼んでくれていた)、学校や学校の先生なんぞ、アテになりませんで」とよく言われたものだ。中には広島の被爆被害者の方もいた。

だから当時の教育熱心な親・保護者は、汚い字を書く自分の子供には、学校などあてにせず、自ら指導に当たり、大変厳しかったことを覚えている。私自身、特に記憶の残る教師に出会ったことがなかったので、素直に同意できたし、字体に個性は認めるものの、「読みやすい字体そのもの改善」を指導の中に入れた事実は記憶にないし、ある意味、問題解法の指導に徹することができた。

しかし最近は「個性的」を越えた「無軌道な字体」を見ることが多くなり、同時に立方体や直方体、円錐、角錐を「描く」のもできない学童が格段に増えている。また図形が描けなくても平気で、それでいて、成績だけは上げたいらしい、オバカな人も増えた。というのも、字体に文句を言われたこともない、代表的な空間図形を描く指導を受けたことがない、と言うのだ。

以前に「中学校でついていけない生徒を創出しているのは小学校の責任が多い」と書いたが、もちろん親・保護者も「ものわかり」がいいのか面倒を避けているのかわからないが、改善の指導をしていないようだ。

タブレットを使ったりしたデジタル機器の授業はカッコイイかもしれないが、試験の時はどうするのかな、と疑問に思っている。紙に書くテストではなく、やはりデジタル機器を使うのだろうか?授業だけデジタルで、テストは紙だったら、たぶんだめな人はだめだろう。

もう少し続く。