こんな暗い話題を取り上げた理由の1つ

学校を襲撃する事件についての続きであるが、なぜこのような暗い話題を取りあげたのか、こちらの動機(?)も説明しておこうと思う。

一つは単に「変な人が変なことを、おおっぴらに実行する時代」になったから注意しないといけない、という感想を改めて持っているからだ。

実を言うと、附属池田小事件が起きたことを知った時、「あ!」と驚きもしたが、「あ~あ、とうとうこういうことを大々的にやる人間が、本当に出てきたか」という気持ちも半分以上あった。もちろん動機や事情などはその時点では、わからない。しかし、変な人が、変な理由で、変なことを平気でやる時代だなと薄々は予感していた。

特に2001年~1999年は「世紀末まで後2年、後1年、新世紀になったぞ」と、妙に浮ついた年で、例のコロンバイン高校事件を皮切りにして、

1999年
4月 アメリカ・コロラド州で「コロンバイン高校銃乱射事件」
4月 山口県で「光市母子殺害事件」
9月 茨城県那珂郡東海村の核燃料加工工場JCOで臨界事故が発生
10月 桶川ストーカー殺人事件
11月28日 「東名高速飲酒運転事故」
12月 京都で「日野小学校児童殺害事件=別名『てるくはのる』事件」」

2000年
2月 名古屋市で「中学生による同級生への5000万円恐喝事件および殺人未遂事件」
5月 愛知県豊川市の主婦が当時17才の高校3年生の男子生徒によって刺殺。
動機は「人を殺す経験をしたかった」と語る。
5月 「近鉄バスジャック事件」で、女性の乗客が一人死亡。
男性乗客が脱出に成功するが、その姿がみっともないと非難される。
8月 大分で当時15才の高校生により「一家6人殺傷事件」が起きる。動機は不明。

2001年
6月 附属池田小事件
9月 ニューヨークで9.11テロ

どれも「変な事件や事故」ばかり起きていたからだ。まるで箍がはずれてしまって、起きてはならないようなことまで起きる。そして「性善説」に立っていた社会も、このままでは崩壊崩落しそうなことばかりで、大きく動きがあった3年間でもあった。

しかしその後の「人の強さ」も見せた事件でもあった。今普通に「被害者支援」が行われているが、上に述べたすべての事件が後の「支援法」制定にかかわってくる。神はどうしてこんなに「供物」を要求するのか、不思議に思った事件群でもあった。そして附属池田小事件が起きる。被害者遺族は今後もフラッシュバックやら悪夢やらに耐えながら、強く生きていって欲しいと望む。

諦めることを教えるのも、知るのも大事か

次の動機は加害者個人に対する単純な関心だ。
どの新聞も雑誌記事もサイトも、どこからからのコピペかな、という似たようなものが多かったが、あるサイトでは、加害者の「少年時からの夢」から欲し下げていて、大変興味深かった。

加害者は精神障害を装えば、罪を逃れる、という知恵も身につけていたぐらい、普通以上の知能・頭脳を持っていたし、その時の裁判では自分自身で弁護の方法まで考えている。しかし決定的に足りなかったものがある。

それは、矛盾しているようだが、「継続力」と「あきらめる」ことだ。
加害者は小~中学生のころ、日頃よく「パイロットになる」と口にしていたらしいが、行動・学習が伴わなわず、担当教師に「口で言うのと、実行するのは違います」とのコメントを成績表によく記述されていた。

塾講師としてやっていると、かなりの場面でこういう人を日常よく見ることが多い。理系になりたい、という割りには、数学や理科の取り組みが甘かったり、ある職業に就きたい、という割りには、それについての研究が足りなかったりする、継続力のない人だ。そして「あきらめる」ことはしないで、だらだらと文句を言いながら日々を過ごしている。

附属池田小学校事件の加害者には、残念なことに、「あきらめたら」と発想することや、そう言ってくれる友人や知人はいなかった。彼の親はもっとひどくて、加害者が幼い時は、日常彼を虐待していたぐらいで、導きにはなりそうもない。

あきらむる=明らかになる⇒現状が明らかになり、自分には無理だとわかったので方向を修正する=あきらめる、となったと語源にはある。この場合、諦めることはむしろ「救い」で、「人間諦めが肝心」ということわざが生き残っているのも、意味がある。

しかし学校では、現在の教育方針は、「自分を大切にして、夢を忘れない、あきらめない」という指導が続いている。これはかえって有害で、ある意味「危険思想」だ。早々と自分の夢を諦めて、「分相応に生きていたら」、あのような事件は起きなかったかもしれないと、無責任な立場の私などは想像してしまった。もちろんあのような大事件を起こした理由はこれだけではないに違いない。しかし根本にあるような気がしてならない。

主張したいことがどうもうまくまとまらなくて、申し訳ないが、これからも続くであろう「変な人が変なことを起こす時代」に、注意して生きていく覚悟は必要だな、と考えている。