話を聞いてくれたのは半分で、半分は聞いてくれなかった

「世間は賢い人が引っ張っていくから、大丈夫ですよ」という保護者もいたが、この意見には内心、唖然とした。つまり「自分の息子や娘は馬鹿のままでいい」と言っているのも同然であることに気が付いていないのにびっくりしたからだ。またその「賢い人たち」が選ぶ政策が常に正しいとは限らないことは、前の戦争や、バブル崩壊、最近では少子化対策などやコロナ対策で証明されているはずだ。

言うことを受け入れてくれた人たちは、周りがどうであろうとも、しっかり勉強してくれたので、安定した職に就いていて羨ましいぐらいだ。今でも彼らに会うと感謝されて嬉しいが、同時に「なんで教育界は、世界の動きにこんなに鈍感なんだろう」と疑問を持った。

「安定企業」である「学校」や「公教育業界」に就職できたから、将来安泰だ~で、情報をアップデートする気力を失ったか、日本は世界つながっている、という意識が希薄化したとしか思えない。「学ぶ動機」が一番欠けているのが、教育界の人たちなのだ。試しに世界情勢を質問してみればいい。たぶん右往左往するはずだ。教育技術論が得意なのは当たり前で自慢にもならない。だからあんな指針になったのか、と今は納得している。

2000年に入ったころから、先進諸国30か国のOECD加盟国の中で、90年代最初はダントツの1位だった学力が、ものの見事に「ベッタ」になってしまったことが明らかになった。90年最初は私にとっての「夢のような時間」と重なるのは、先ブログで報告した。

2000年になって学力低下が明らかになった

ようやっと「学力低下」が叫ばれ、無視できなくなったので2003年 平成14年に「確かな学力」の方針に切り替わった。2013年には、統計の上では家庭学習の時間も増え、「ゆとり教育」の終焉となったみたいだ。しかし、「新学力観」はいまだ健在で、この考えに染まった人たちが教鞭を取り、多くの親・保護者が賛同しているのが不安でたまらない。

そして基礎勉強はすっ飛ばして、「答えのない問題を考えるようにならなければいけない」と言う風潮も起きている。これもある意味危険だな、と考えている。理由は3つある。1つは「答えのある問題すら解けない人が=基礎研究自体を疎かにしている人が、答えのない問題=どのような理論を使って考えるのかすら不明なものを、考えることができるのだろうか」、2つ目は「答えのない問題の『解答』が、正しいかそうでないかの判定は誰が、どういう基準でするのだろうか」、3つめは「そもそも学校の先生がそういう問題に対応する訓練を積んでいるのだろうか」である。色々と不安だ。

しかし私は本当の危機はこれからだ、とも思っている。1990年~2000年の間に中学生だった13才~15才の人は、大勢が、日本史上で一番勉強していない。今彼らは30才~40才前後だ。結婚している人もいるだろう。もちろん教育界に入っている人もいるだろう。つまり社会の中堅クラスの、ちょい下あたりにいる。

その彼らがキチンと学生を指導できるのだろうか。
子供をもったら、ちゃんと教育できるのだろうか。
いやそれ以前に、社会でキチンと自分の役目をはたせるのだろうか。

「団塊の世代」も困った存在だったが、「第2の無気力不勉強集団」が、社会の中枢を占めるようになっていく時代が1年ごとに近づいてくる。ものすごく不安だ。また今30才~40才の人は結婚できない人が増えている、と聞く。もちろんほとんど表の原因は経済的なものだ。

しかし、裏で、日本の神様が「彼らには伴侶も、子供も、持たせない方が日本のためだ」と判断しているのかもしれない。そうなら信じられないほど残酷な話だ。彼らだけでなく、彼らの親たちは、自分たちの子供の結婚する晴れ姿も、孫も見れないのだから。

会社に入って出世することより、青少年→夫か妻→父か母→祖父か祖母に「出世」する方が、もっと難しい時代になってしまった。どうすればいいのだろうか。これに対する考えはまだまとまっていない。

ただ、今現在、学生の子供を持つ親は、保護者は、相当しっかりしないといけないことだけはわかる。そしてしっかりし過ぎて、「あなたのためだから」を連発して、逆に子供に嫌われてもいけない、という矛盾にもクリアしないといけないことも、数々の親子間の殺人事件などからも、あきらかである。ちなみに現在の日本では殺人事件は70年代に比較して、一桁減ったが、家庭内・親族内での殺人事件は増え続け、今や全体の半分を占めている、というのは、統計マニアの中では常識になっている。