多くの人に欠けているのは注意力

何が自分に欠けているのか、1年なら1年なりに、2年なら2年なりに気が付いていなければならない。
3年生なら気が付いていない時点でアウトだ。早く気が付くこと。

欠けているものは個人個人違う。しかし、大ざっぱに共通している欠点は「注意力の不足」、「注意力養成を怠ること」と言っても良いだろう。

ずっと「精神的成長が必要」と言ってきたが、この抽象的すぎるものを、もっと具体的にしたら「注意力を増やすこと、注意力養成」だ。

世の中は「注意することだらけ」だ。
油断していると、車や壁にぶつかったり、穴に落ちたりする。油断していなくても、危険ドラッグを吸引した人にやられることもあるから、なんとも言えないが、注意はちゃんとしていましたよ、が証明されたら災難に遭っても、責任は軽減できるので、やはり注意しておくのに越したことはない。よって大人は社会生活の知恵として注意をすることが当たり前だ。

しかし子供は注意をしていない。それより、注意をしていないから子供なのだ、という前提を忘れている大人が最近多い。具体的には、年齢とともに要求される注意能力のレベルアップを図っていない、図るように大人が仕向ける、監視する体制が取れていないと言える。

監視というと、なんだか悪いイメージがあるが、大人=親・保護者が自分の子供を監視しないで、誰が監視するのだろう。これは干渉ではない、正当な指導だ。

もっと問題なのは「注意が継続しないこと」だ。
特に場が変わると、前の場での注意を忘れてしまうのが普通だ。あるいは問題が解決すると油断して、忘れることも多い。よく上げる例として、こういう場面がある。
⇒遊園地やショッピングモールで迷子が出た
⇒迷子案内が親を呼ぶ
⇒親は泣いている子供に謝りつつ、係の人にありがとうございました、と言って外に出るが…。
⇒その時にかばんを忘れていく。

安心した、やった、できた!と思った瞬間に、人は失敗するようにできている。この特性を見逃してはならない。試験問題なんかは、そこを狙って作ってあるし、高配点の問題ほどその傾向が強い。わかっている人なら「問題に隠された悪意の網」が透けて見えるぐらいだ。よって「注意の継続力」を意識して養成する必要がある。意識してる場合とそうでない場合では、時間が経つにつれて、かなり違いが出てくる。

どうしたら注意深い人間になれるのか?

心の持ちようとしては、臆病さを優先する。ビビっている人の方が良い。忘れたら恰好悪い、とか、恥ずかしいという気持ちでも良い。もちろんそれが行き過ぎると神経過敏になってしまうので「過ぎたるは及ばざるが如し」も大切だ。

さらに具体的には「自分がミスをする場面は属人性が高いので(人によってミスをする場面はそれぞれ違う)、そこを分析して特徴をつかむ=己を知る。そしてその場面を覚えておいて、そこに来たらぐっと堪えて、注意力を高める」ことで、大分防げる。そういう人をたくさん見てきた。それでもミスをしたら、自分で自分に苦痛を与える。腕立て伏せでもいいし、罰金10円でもよい。

ただしこの「注意力を増加させる」というのは今の学校体制では難しい。
特に「新学力観」がいきわたっているからかもしれない。ご存じのようにこれらは「生きる力」とか「確かな学力(を身につけること)」を目標にしている。「確かな学力」とは,「知識や技能はもちろんのこと,学ぶ意欲や,自分で課題を見付け,自ら学び,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力等までを含めたものである」となっている。

大変結構な目標だが、私に言わせると、生徒の主体性に頼っていいよ、と読めてしまうし、そもそも欲張り過ぎな気がする。特に「自分で課題を見付け,自ら学び,主体的に判断し,行動し」云々は少し無理なんじゃないの?と考えてしまう。もちろんそうなれば良いのだが、現実を重視して「できる限り」という強調の文言と「知識や技能の習得については教師の助言と指導により」と明確な責任を入れておくべきだった。

お子様真理教なのか、夢想主義者なのか、足元を見ていないようだ。
この「新学力観」で伸びていく子は、元々「持っているもの」が違う。恐らくどの時代に生きていたとしても、勝手に伸びていく新種の生物みたいな子供で、将来は世界に羽ばたいていくタイプだ。

そうでない普通の子供たちには元々ある伝統的な指導方法、口やかましく大人が注意を促す方法でいかないと、それこそ「夢見る夢子ちゃん」しか育たない。

もし今親御さんが自分の子供をどう育てようか、と思うのなら、この新学力観はやめておいた方が良い。自分でしっかり子供を見つめて、学校には頼らず、厳しく指導してくれる塾なり、家庭教師を見つけて、学習指導をしてもらうべきだろう。