小式部内侍 (こしきぶのないし)は和泉式部の娘
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
[現代和訳]
今母がいる丹後へ行くのなら(=生野とかけている)、大江山を越え、生野を通って行かなければならない遠い道なので、まだ天橋立へは行ったことがありません。 ですから、そこに住む母からの手紙など、まだ見ようはずもありません。
[作者生没年・出典]
生年不明 没年1025年 金葉集 巻九 雑上 586
[人物紹介と歴史的背景]
小式部内侍は56番で紹介した和泉式部の娘だ。彼女も若いうちから歌の名手だった。だからやっかみで「小式部内侍は母親に代作してもらっている」と噂されていた。
ある時母和泉式部が夫・藤原保昌と丹後に出かけてそばにいない時に、歌合があり、小式部内侍が一人で出席した。その時、64番で紹介する藤原定頼が「お母さんからの手紙はまだですか。いなくて心細いでしょう」と通りすがりにからかったのだが、すかさず小式部内侍は彼の裾をつかんでこの歌を返した、というエピソードがある。
しかし研究によると、小式部内侍だけが出席した歌合の記録が見つからず、このエピソードが真実かどうかは不明だ。似たような事実はあったのだろう。小式部内侍は20代半ばで出産直後に死亡している。若い才人はよく早死にするので残念だ。
伊勢大輔 (いせのたいふ)
いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
[現代和訳]
昔、奈良の都で咲き誇っていた八重桜が、今日はこの宮中で、いっそう美しく咲き匂っています。
[作者生没年・出典]
生没年不明 詞花集 巻一 春 27 中古三十六歌仙の一人
[人物紹介と歴史的背景]
伊勢大輔は49番で紹介した大中臣能宣の孫。一条天皇の中宮になった道長の娘・彰子に教育係りとして仕える。
当時、八重桜は気候と土壌の関係上、奈良県付近にしかなかった。それが平安京に献上されて来た時に、受け取る係りに任命されたのが、新人の伊勢大輔だったが、紫式部に「新人がやるお仕事ですよ」とちょっと意地悪をされ、その上、道長には「受け取った時に歌を詠むことになっておるよ」と言われて、即興で詠んだもの。
歌人の家系
祖父も父(中臣輔親)もすぐれた歌人だったので、「重代の歌人」と言われただけある。この歌は、万葉集に収録されている、小野老(おののおゆ)が作った、
青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり
を意識し作ったのは明らかだと思う。ただしこの歌は、「青丹」つまり水銀に始まる、金銀銅など数々の鉱物資源を押さえ、全盛を誇る「天智=藤原王朝」を少し皮肉って作ったものだと言われている。
奈良の都を寿いだり、懐かしんだりする歌は、多くの人が作っているので、後、大伴家持からも一首。
春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば京(みやこ)の 大路(おおじ)を思ふ
この「テスト」に耐えた伊勢大輔を、式部自身はかなり気に入ったみたいだ。また伊勢大輔が、紫式部の「いじわる」にも耐えたのは、実は彼女の大ファンだったからでもある。後日に、あるお寺(神社だったかな?)にお参りに行く時にも、2人はいっしょに出かけているぐらいだ。